教皇フランシスコ、バチカンの職員への降誕祭の挨拶から(2020年12月21日)[一部試訳]
主の降誕祭は喜びの祝日です、「なぜなら、わたしたちのためにイエスが生まれたから」です(イザ9・5参照)。わたしたちはみな、イエスのところに行くよう招かれています。羊飼いたちが、その模範を示しています。わたしたちもまた、イエスのところに行かなければなりません:わたしたちの無気力、倦怠感、無感動、無関心、恐れを振り落として。特に、生活の熱意、信仰の熱意を再発見することが困難な、この健康に関する緊急時において。羊飼いたちに倣って、わたしたちは三つの態度を自分のものとするよう招かれています:再発見すること、観想すること、告げ知らせること。わたしたち一人ひとりが、自分の生活の中で、どのように再発見することが出来るか、観想することが出来るか、告げ知らせることが出来るかを見てみましょう。
神の御子の誕生を、歴史の最も偉大な出来事として再発見することが大切です。その出来事は、それが起こる数世紀も前から預言者たちによって予告されていました。その出来事は、今も語られています:歴史の中で、イエスについて語られるように語られる人物がいるでしょうか。二十の世紀が過ぎましたが、イエスはこれまで以上に生きておられます――そしてまた、これまで以上に、何度も迫害されています;また、たくさんのキリスト者の証しの欠如によって、これまで以上に汚(よご)されています。
自分たちの振る舞いをもってイエスから離れた人々は、イエスをさらに証ししています。イエス無しには、人間は悪の中に、罪、悪癖、利己主義、暴力、憎悪の中に墜落することを。「みことば」は肉となり、わたしたちのただ中にご自分の住まいを置きました:これが、わたしたちが再発見すべき出来事です。
第二の態度は観想の態度です。最初の態度は再発見すること、第二は観想することです。羊飼いたちは言います:「さあ行って、主が知らせてくださった、その出来事を見て来よう」(ルカ2・15):つまり、黙想しよう、観想しよう、祈ろう。もっとも美しい模範は、イエスのお母さん、マリアによってわたしたちに与えられます:マリアは心の中に留め、思い巡らします…。わたしたちは黙想しながら、何を見出すのでしょうか。聖パウロがそれを語っています:「わたしたちの救い主である神の慈しみと人間に対する愛が現れたとき、神は、わたしたちが義に基づいて行った業によってではなく、ただご自分の憐みによって、再生の洗いと、聖霊による刷新をもって、わたしたちを救ってくださいました」(テトス3・4-5)。
わたしたちは、神がご自分のいつくしみ(憐み)を、幼子イエスの中に現わしてくださったことを見出します。神は、人生においていつくしみを必要としているわたしたち一人ひとりのために、ご自分のいつくしみを現します。一人ひとりが、自分の心の中にある、神のいつくしみを必要としているものに名前を付けることが出来るでしょう。小さな幼子を前にして、優しさに動かされない人はいません。神は、幼子イエスの中に、ご自分を愛すべき方、善に満ち、柔和な方として示します。このような神を、わたしたちは真に心を尽くして愛することが出来ます。神はわたしたちを救うために、ご自分の善良さを示します。救われるとは、どういう意味でしょうか。神のいのちそのものの中に入ること、洗礼を通して神の子となることです。これが主の降誕祭の偉大な意味です:神は人となりました、わたしたちが神の子となるように。
三位一体の神の第二のペルソナが、人となりました。多くの兄弟の長子(ちょうし)、長男となるために。ですから、神は洗礼を通してわたしたちを救い、わたしたちをみな兄弟とします:この神秘を観想しましょう、幼子を観想しましょう。その理由で、プレゼピオ(馬小屋)のカテキズムは、とても素晴らしいものです。神のいつくしみを告げるやさしい幼子を、わたしたちに見せてくれるからです。プレゼピオを観想しましょう。先日、わたしは[プレゼピオの]小さな幼子を祝福しました:それは「観想する」ことでした。プレゼピオの幼子は一つのご像ですが、それは、幼子になった神の、この偉大ないつくしみをわたしたちに考えさせます。
そして、この現実の前に、三つ目の態度は:告げ知らせることです。これはわたしたちが前に進むことを助ける態度です。この時期、わたしたちを助ける三つの態度、そして、この三つ目の態度をもって前に進むこと。どのようにすべきでしょうか?もう一度、羊飼いたちを見てみましょう:「羊飼いたちは、見聞きしたことがことごとく告げられたとおりだったので、神をほめたたえ、賛美しながら帰っていった」(ルカ2・20)。羊飼いたちは、彼らの日々の生活に帰っていきました。わたしたちもまた、日々の生活に帰らなければなりません:降誕祭は過ぎます。けれどわたしたちは、変容されて、家庭生活、仕事の生活に戻るべきです。わたしたちが聞いたこと、見たことすべてのために、神をほめたたえ、賛美しながら帰るべきです。わたしたちは、世界に喜びの知らせを運ばなければなりません:イエスはわたしたちの救い主だ、と。これは務めです。なぜわたしは希望をもっているのでしょうか。主がわたしを救ってくださったからです。わたしたちが観想したものを記憶し、それを告げながら前に進むこと。言葉をもって、わたしたちの生活の証しをもって告げること。困難や苦しみは、降誕祭の光を暗くすることは出来ません。その光は、誰もわたしたちから取り去ることのできない内的な喜びを生じさせます。
このように、これら三つの態度をもって進みましょう:
再発見すること、観想すること、告げ知らせること。
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