Sr.ルカの独り言:(2021年1月18日)教皇フランシスコの言葉から:「賛美の祈り」について

教皇フランシスコは、2021年1月13日の一般謁見、

祈りについてのカテキズム21回目に、「賛美の祈り」について話しました。

別資料、試訳参照]


教皇は、マタイによる福音11・25-30を黙想しながら、

いつくしみ深い父である神への賛美の祈りは

ものごとがうまく行っているときだけでなく、

人生の最も深い闇のときにも捧げることが出来る、

いやむしろ、苦難の時にこそ捧げなければならない、と言います。


イエスが、最も暗い日、苦しいときに

嘆きの祈りではなく、賛美の祈りを

天の父に上げたことを強調しながら。


***

洗礼者ヨハネは、イエスが本当にメシアであるのか

疑い始めています(マタ11・2-3参照)。


すでにイエスは弟子たちに、

彼らもご自分のように「迫害」を受けるだろうと明言します(マタ10・16-25)。


苦難の影が現れ始めるとき、

イエスは御父に賛美の祈りをささげます。

「幼子たち(小さな者たち)」に

神の国の秘密を明かしてくださるから(マタ11・25-30)。


「[あなたは]これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、

幼子たち(小さな者たち)にお示しになりました」(マタ11・25)。


ルカ福音書では、イエスはこの賛美の祈りを、

神の国を告げるために村々に派遣された72人の弟子たちが

「喜んで帰って来た」後、

「聖霊によって喜びにあふれて」父に捧げています(ルカ10・21-25)。


***

なぜ、苦難の時に「賛美の祈り」を捧げることが出来るのか。


教皇フランシスコは、イエスの賛美の祈りは、

何よりも先ず、父の「子」である喜びだ、と言います。

つまり、純粋に、「子」であることを感謝する祈り。


神は、わたしたちの賛美を「必要とはしていない」、

「わたしたちが」それを必要としているのだ、と教皇は思い起こします。


「賛美することは純粋な酸素を呼吸するようなものです:

それはあなたの魂を清くし、はるか遠くを見るようにします。

それは暗く困難なとき、あなたを閉じ込めたままにしません」。


***

イエスに従う聖人たちも、闇の日に賛美を捧げていることに触れながら、

教皇フランシスコは、アシジの聖フランシスコに言及します。


アシジの聖者の有名な「太陽の賛歌」、「光に満ちあふれる」賛歌は、

まさに、もはや目が見えなくなり、兄弟たちからも理解されず、

死を目の前にした聖人の心からあふれ出た祈りです。


***

教皇はここで直接には述べていませんが、

それは、マリアの賛歌の祈り(「マニフィカト」)にも

つながるでしょう。


マリアは、神の使いの「お告げ」によって

「いと高き方の子」を「聖霊によって宿す」ことを知らされます。

けれど、これから具体的にどうなるのか、何も知らされていません。

わたしたち自身を、マリアの「あの時」に置いてみましょう。

マリアにどれほどの恐れと不安があったか、

少しは分かるかもしれません。


それでもマリアは、自分の恐れと不安の上にかがみこみ

閉じこもるのではなく、

「急いで」ユダの山里に向かい、親類エリサベトを訪問します。


マリアの「賛美の祈り」は

主の言葉を「信じた者」としての幸いの中からほとばしり出ます。


それは、マリア自身の感謝と賛美の祈りであり、

同時に、マリアが属する神の民イスラエルを代表する祈りでもあり、

そこにはすでに、それから後、代々にわたって

新しい神の民教会によって捧げられるだろう賛美の声が

内包されています。


マリアは、主がいつくしみ深い方であり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに結んだ約束に

忠実な方であることをたたえています(ルカ1・39-56参照)。


わたしたちはここで、

主がアブラハムにした約束は、

旧約の民、新約の民の境界線をも超えて

「すべての人」に開かれていることを思い起こすでしょう。


***

聖人たちは、どんな時でもいつも賛美することが出来る、と教皇は言います。

「神が忠実な友であるからです」、と。


キリスト者の賛美の祈りは、

父である神が、

御子キリストのうちにわたしたちに約束したことに

忠実な方であることから生まれる祈りです。


わたしたちは、御子のうちに、

真に「神の子」「天の父の子」となったのです。

まったく「無償」で。


わたしたちが「子」である理由は、

ただ、神がいつくしみ深い父であることだけです。

わたしたちをご自分の子として造り、愛し、共にいることを望んでいる、

それだけの理由で。


***

わたし自身は、

「キリストに出会う前」と「キリストに出会った後」を

大人としてはっきりと体験しました。

今でも、あの「回心のプロセス」は

わたし自身の存在の中に刻み込まれています。

また、今もその「回心のプロセス」を生き続けているとも言えます。


けれどそれは、生まれてすぐ洗礼を受けた人々も

自分の存在の深いところで、時に自覚していなくでも

経験し続けていることでしょう。

洗礼は、わたしたちを神の子とする偉大な賜物ですが、

それは「出発点」でもあります。

わたしたちの中には、

神の子として成長するためのすべての力が秘められていますが、

その力を、日々、聖霊に導かれながら成長させるのは

わたしたちの自由と責任に任されています。


イエスは、地上での存在の初めから

まだ人間としての自意識が生まれる前から、

「天の父の子」であり、

その意識は30年間のナザレでの隠れた生活の中で

家庭の日々の営みの中で、

深められていったのではないでしょうか。


神の真の子、イエスでさえ

人々の前で父から託された使命を行う前に

30年間、家庭の中で「子」であることを学んだのです。


これは何と奥深い真理でしょうか。

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