Sr.ルカの独り言:教皇フランシスコと共に: 第三主日、正午の祈りから (2021年1月24日)
[文中の教皇の言葉は試訳です]
この日は「主のみことば」の主日で、ペトロ大聖堂でミサが行われましたが
教皇は坐骨神経痛のため不在、フィジケッラ大司教が司式し、教皇が準備した説教を読みました。
「お告げの祈り」は教皇フランシスコ自身が、バチカン宮殿で唱えました。
教皇フランシスコの「お告げの祈り」の前の
いつもよりも長い話を聞いていて、
私は教皇の「遺言モード」を感じました。
「遺言モード」…
これは私自身の
(教皇の立場とは比較にならないほど小さいものですが)、
「マリア論オンライン講座」の心構えでもあります。
人生の(たぶん)半分以上を過ぎたとき、
私は思いました。
これまでの出会い、出来事、周りの人々…を通して
主が私たちに与えてくださった賜物、
信仰の無償の賜物を
「返していく」、ターニングポイントに来た、と。
それは何も大げさなことではありません。
私自身、日々の何気ない営みの中で、
周りの人々との「普通の生活」の中で
信仰の中に成長してきたのですから。
***
教皇フランシスコは、同じことを何度も繰り返します。
しかし、新たな熱意、新たな表現をもって。
この日の講話の内容も、
私たちが「すでに聞いて知っている」ものとも言えますが、
惰性的な繰り返しではなく、
まさに「遺言モード」で語る
つまり「これだけは言わなければならない、
これだけは伝えなければならない」という
教皇の思いが伝わる一言一言に
新たに心を動かされ、鼓舞されたのは
私だけではないでしょう。
***
この日、教皇フランシスコは
「時」と「回心」について話されました。
典礼暦の年間が始まったばかり、
今年B年に読まれるのはマルコによる福音。
洗礼者ヨハネが場面から退いた後、
宣教を始めるイエスの姿が現れます。
「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて[回心して]、福音を信じなさい」(マコ1・15)。
典礼暦、年間の初めに
「時」について新たに考えることはふさわしいことであるし、
特にこの「不安と恐れ」の時代にひじょうに大切だと思います。
イエスの宣教の最初の言葉、「時が満ちた」とは
神の国が決定的に「近く」なったこと、
神が「近づいている」ことを表します。
それは、神の御子が人となった時に実現しました。
教皇の言葉を聞きましょう。
福音記者マルコのこの箇所で、
「時(時間)」は、神が行った救いの歴史の期間と理解されています。
ですから、「満ちた(完成した)」時とは、
神の救いのわざが、その頂点、完全な実現に達した時です。
それは、神が御子を世に遣わし、
神の国がかつてないほど「近く」になった、歴史の中での時です。
救いの時は満ちました。イエスが到来したからです。
けれど、と教皇は思い起こします、
「救いはオートマチック(自動的)ではない」。
救いは「愛の賜物」ですから、
「自由」なこたえを求めているからです。
愛の賜物は、強制ではありません。
愛の賜物は、私たち一人ひとりが自由に受け入れることを求めます。
同時に、私たちは愛の賜物を、自由に拒否することも出来ます。
そして愛の賜物へのこたえは「回心(悔い改め)」である、と
教皇は言われます。
しかし救いは自動的(オートマチック)ではありません。
救いは愛の賜物であり、
愛の賜物は、人間の自由に向かって差し出されています。
いつでも、愛について語られる時、自由について語られます。
自由のない愛は、愛ではありません。
それは利害(関心)、恐れ、たくさんのことであり得ます。
けれど愛は自由であり、自由であるから、自由なこたえを求めます。
私たちの「回心」を求めます。
教皇は、「回心」とは「メンタリティーを変えること」、
この世のメンタリティーから、
神の子としてのメンタリティーに変えることだと言われます。
それはメンタリティーを変えること、
生活(生き方)を変えることです、それが回心です。
もはや、この世の模範(手本)に従わず、神の模範、イエスに従うこと。
イエスが行ったこと、イエスが私たちに教えたことに従うことです。
それは、視点と態度の決定的な変化です。
ですからそれは、生活をちょっと改めるというレベルのことではなく、
根本的に考え方を変える、心を変える、
…一言で言えば、私たちの存在の中心である心を
神に決定的に向ける、ということです。
どうしてそのような「決定的な変化」が必要なのでしょうか。
それは、罪の「空気」が私たちの生活のあらゆるところに浸透しているからだ、
と教皇は言われます。
実際、罪、特に世俗的な罪は、空気のようにすべてのものに浸透しています。
それは他の人々に反して自分を肯定(主張)すること、
神にさえ反して自分を肯定するメンタリティーをもたらします。
これは考えさせられます…
あなたのアイデンティティーは何ですか?
ひじょうにしばしば、私たちは自分のアイデンティティーを
「…に反して、敵対して(contro)」という用語で表現します。
自分のアイデンティティーをこの世の精神で、
肯定的な言葉、救いの言葉で表現するのは困難です。
それは自分自身に「反し」、他の人々に「反し」、
神に「反し」ます。
このため、罪のメンタリティー、この世のメンタリティーは
虚偽(ごまかし)と暴力を使うことをためらいません。
虚偽と暴力。
虚偽と暴力をもって、何が起こるか見てみましょう:
貪欲、奉仕ではなく権力の欲求、戦争、人々の搾取…
これが虚偽のメンタリティーであり、
明らかにその源泉は「虚偽の父」、偉大な嘘つき、悪魔です。
悪魔は虚偽の父です。このようにイエスは悪魔を定義します。
これはすべて、イエスのメッセージに反する、と教皇は言われます。
この世のメンタリティーから、
神の子としてのメンタリティーに「回心」し、
あがないを受け入れることのできる「時間」、
つまり私たちの人生は「短い」ことを、教皇は思い起こします。
若い時、人はあたかもこの世の「時」が永遠に続くかのように
過ぎ去る一瞬一瞬の大切さを気にも留めません。
死の間際に初めて
「人生が風のように、あっという間に飛んでいってしまった」ことに
気づきます、と。
このことすべてに、イエスのメッセージは反対しています。
イエスは招いています、
自分自身が神を必要としていること、
神の恵みを必要としていることを認めるように。
すべての人に対して、迎え入れる謙虚な心をもつように。
人々との出会い、人々への奉仕の中で、自分自身を実現することを知るように。
私たち一人ひとりにとって、
あがないを受け入れることのできる時間は短いのです。
それは、この世での私たちの人生の期間です。
それは短い。長く見えるかもしれませんが…。
私は、あるひじょうに善良なお年寄りのところに、
病者の秘跡を授けるために行ったときのことを覚えています。
彼は、聖体をいただく前に、私に
「私の人生は飛んでいきました」と言いました。
あたかもこう言うかのように:
私は人生が永遠であるかのように思っていました、けれど…
私の人生は飛んでいきました。
このように私たち、年取った者は感じています。
人生は過ぎ去ってしまったと。
この「短い」人生の中で
私たちは神への愛を証ししなければなりません、と
教皇は言われます。
人生は、神の無限の愛の賜物です。
しかし同時に、私たちの神への愛を証しする時でもあります。
ですから、一瞬一瞬、私たちの存在のあらゆる瞬間は
神を愛するため、隣人を愛するため、
そしてこのようにして永遠のいのちに入るための貴重な時です。
イエスは、私たちの人生のあらゆる時期に
それぞれの時期に固有な方法で私たちを呼んでいる、
と教皇は言われます。
それは愛の呼びかけであり、自由なこたえを求めます。
私たちは、「はい」と言うことも「いいえ」と言うことも出来ます。
私たちの人生の歴史(物語:ストーリー)は二つのリズムを持っています。
一つは、時間、日、年で形造られるリズム。
もう一つは、私たちの成長の季節によって構成されたリズム:
誕生、幼少、青春、成熟、老年、死。
一つ一つの時期、一つ一つの段階は固有の価値をもち、
主との出会いの、特権的な時となり得ます。
信仰は私たちが、これらの時期の霊的意味を見出すことを助けます:
それぞれの時期は、主の特有の呼びかけを含んでいます。
私たちはその呼びかけに、肯定的、または否定的なこたえを
差し出すことが出来ます。
福音の中で、私たちは、
シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがどのようにこたえたかを見ます:
彼らは成熟した人々でした、
漁師としての自分の仕事をもち、家庭の中での生活がありました…
それにもかかわらず、イエスが傍らを通り、彼らを呼んだとき、
「すぐに網を捨てて、従い」ました(マコ1・18)。
教皇は、だから、
神が私たちの日々の生活の中で私たちの傍らを通るのに気づき、
日々、一瞬一瞬を「救いの時」として受け入れてください、と勧めます。
愛する兄弟姉妹たち、
私たちのそばを通るイエスが、
受け入れられず通り過ぎてしまうことがないよう
警戒して(目を覚まして)いましょう。
聖アウグスチヌスは言いました:「私は神が通るのを恐れる」。
何を恐れているのでしょうか。
神に気づかないこと、神を見ないこと、神を受け入れないことを
恐れているのです。
教皇は、おとめマリアへの祈りで話を結びます。
おとめマリアが、
毎日、毎瞬間を、
主が傍らを通り、
従いなさいと私たちを招く(一人ひとり、その生き方に沿って)
救いの時として生きることが出来るよう、私たちを助けてくださいますように。
私たちが、
この世のメンタリティー、花火のような世の幻想のメンタリティーから、
愛と奉仕のメンタリティーに回心することを助けてくださいますように。
アーメン。
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