年間第六月曜日(Albert Vanhoye枢機卿)
(Albert Vanhoye枢機卿:みことばの黙想より試訳)
(創4・1-15,25;詩50;マコ8・11-13)
イエスに対するファリサイ派の人々の敵意を示している今日の福音は、
最初の殺人、アベルの殺害を語る第一朗読との関係の中にあります。
教会は、アベルの物語と、イエスの物語の間の関係を認識しました。
ローマ典礼の中で、アベルのいけにえ(犠牲)は、
イエスのいけにえの前表として思い起こされています。
この創世記の箇所の最も優れた解説は、
カインによって犯された殺人の動機は悪意であると断言する
ヨハネの第一の手紙が差し出しています。
罪のない者が、悪い者によって殺されます。
善を行ったから、憎まれます。
「カインは悪い者から出て、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。
自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」
(一ヨハ3・12)
ヨハネはこのエピソードを、
世から憎まれることに驚くべきではないキリスト者たちに
適応しながら考察します。
「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。
きょうだいを愛しているからです。
愛することのない者は、死の内にとどま[り](一ヨハ3・14)、
さらには自分のきょうだいを殺そうとします、
なぜなら「悪魔は初めから人殺し[である]」からです(ヨハ8・44)。
ですからカインとアベルの物語は、私たちにも当てはまります。
なぜなら、カインにとって本当のことは、
私たちにとっても本当だからです。
私たちが、他の人々に対して悪意を抱く時、
それはその人たちが悪いことをするからではなく、
私たちが善い者ではないからです。
私たちは悪い者で、他の人々が私たちよりも優れているのを見て、
我慢が出来ないのです。
私たちはこの誘惑に、ひじょうに警戒しなければなりません。
私たちの中に反感や敵意が生じた時、自問しなければなりません。
「なぜ私はこのような考えをもつのか?
他の人々が悪い者だからか、
それとも私が十分[善い者]ではないからか?」
しばしば後者の場合が多いのです。
主は私たちに、他の人々に対して、たとえその人々が悪い者であっても、
悪意をはぐくまないように求めます。
私たちは、より善い者にならなければなりません、
善をもって悪に打ち勝つために。
神の光は、この人類の物語の始まりにおいても差し込みます。
教会の教父たちはそこに、
イエスの神秘、罪に対するイエスの勝利を認識しました。
罪のないアベルは死にます。
このようにして、人類の歴史における最初の不正が行われました。
けれど神は見ておられます。神は決して無関心ではありません。
たとえ時に、人間に関心がないかのように思われることがあっても。
アベルの死の後、神はカインに問いかけます。
「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」
教父たちは、ここ、人類の初めに、
この最初の殺人の救済措置として、
復活を着想する神の意図を察知しています。
ヘブライ人への手紙の中で、作者は
アベルが、死後も、復活したキリストの姿であることを
示しています(ヘブ11・4参照)。
アベルは死にましたが、その声を発し続けます。
実際、主はカインに言います。
「あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」。
ですから、ある意味で、アベルはまだ生きています。
しかしヘブライ人への手紙の作者は
血の声が、イエスの場合においては、さらに強いと考察します
(ヘブ12・24参照)。
敵たちによって流されたイエスの血は、彼の死後も叫びます。
イエスは復活し、イエスの声は、
復讐を求めるためではなく、
いつくしみと愛を嘆願するために叫びます。
この聖書の箇所で、教会の教父たちは
アダムの新しい息子の中に、
イエスの復活のもう一つの象徴をも垣間見ました。
テキストは言います。
「アダムはさらに妻を知った。
彼女は男の子を産み、セトと名付けて言った。
『カインがアベルを殺したので、
神がその代わりに一人の子を私に授けられた』」。
教父たちの解釈の中で、セトは、復活したキリストの姿です。
ですから神は、初めから、
ご自分の救いの計画、悪と死に対する勝利を着想していました。
それは、死んで復活したイエスにおいて、人間に与えられるでしょう。
今日の福音は、このイエスの勝利について、神秘的な方法で語っています。
ファリサイ派の人々は、イエスを試そうとして、
天からのしるしを求めます。
もしイエスがこのしるしを与えるなら、
彼らはイエスを断罪し殺す理由を見つけるでしょう。
けれどイエスは、その時は拒否します。
「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。
よく言っておく。今の時代には決してしるしは与えられない」。
実際、天からのしるしは、イエスの死と復活です。
それは、神の愛のしるし、イエスの勝利のしるしです。
福音のもう一つの場所で、これはさらに明確に示されます。
海に投げ込まれ、神の介入によって死から逃れた
ヨナのエピソードについて、イエスが言及するとき。
神はこのように、ご自分の、悪と死に対する勝利の計画を準備します。
(マタ16・4と並行箇所参照)。
ですから、私たちの心をイエスの勝利に開きましょう。
それは、善が勝つために、
愛をもって受け入れられた苦しみの勝利です。
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