Tomas Spidlik枢機卿「日々のみ言葉」より[試訳]四旬節第二水曜日
四旬節第二水曜日:ご自分の民から裏切られる(マタ20・17-28)
■今、私たちはエルサレムに上って行く
「あらゆる川がヨルダンなのではなく、あらゆる町がエルサレムなのではない」と、中世の巡礼者たちは、パレスチナへの骨の折れる危険な巡礼を正当化するために言いました。ユダヤ人たちにとって、エルサレムは、神が、住まいとして選んだ町でした。シオンの山の上の神殿の中に。約束され待望されたメシア、将来の世代の王が、ご自分の国を掌握することができるのは、この町でなければ、他にどこにあるでしょうか。
イエスは、これらすべての預言をよく知っていて、それが成就するために、エルサレムへの出発を告げました。上に上る。町は丘の上にあるからです。けれどまた、象徴的にも上ります。イエスはまさにこの町から宣言するだろうから:「私は天と地の一切の権能を授かっている」(マタ28・18)。シオンへの歩みは、勝利に満ちた行列で頂点に達するでしょう。人々が彼に向かって「ダビデの子にホサナ」と歌うだろう時に(マタ21・9)。この物語全体の中で、あまり明確ではないことがあります:イエスが権力を取得する方法。イエスは死刑を宣告され、茨の冠を受けなければならないでしょう。
神のすべての神秘は理解不能です。それらを洞察するためには、聖霊の特別な照らしが必要です。賜物としてそれを持つ人は、聖パウロと共に言うことが出来るでしょう:「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです」(ガラ6・14)。
■ 嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられるだろう
笑うことと、嘲笑することは別のことです。人は、冗談、言葉の遊び、予期しない状況を笑います。嘲笑されるのは、例えば、歌えると自慢してひじょうに下手だったり、味方や支持者なしで統治したいと思っている人です。
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聖パウロは嘲りに関して書いています:「[キリストの]十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものです」(一コリ1・18)。聖霊によって照らされていない人には見えない、新しい現実が明らかになるまで、嘲笑は正当化されます。
キリストは、すべての人から見捨てられ、ご自分の王国を掌握します。けれど、父である神は彼の側にいます。そしてこれが、天と地におけるキリストの最大の権能を形づくっています。それはつねに有効な概念です。一人の人間と神は、すでに大多数です。信仰を持っている人は、人々のもとでの失敗を恐れません。信仰を持っている人は、キリスト教的生活、その諸原則、祈りが、無神論者には馬鹿げたことに見えることを驚きません。この嘲笑は悲しさの動機となります。彼らの盲目性への同情(compassione)を経験するからです。
人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される
十字架の神秘を理解するためには、聖霊の光が必要です。私たちの日々の経験において、光はつねに、何らかの外部の源泉から来ます:太陽、電灯、ろうそく。ユダヤ人たちは二重の光について語っていました:外的光と内的光。内的光とは、物事を越えて(超越して)見る能力、「目の光」。
イエスを知るために、祭司長や律法学者たちは、外からの神の照らし、つまり聖書、預言者たちの言葉、イスラエルの歴史のさまざまなシンボルをもっていました。けれど彼らは、それらを理解していませんでした。彼らには「目の光」、霊的に聖書を理解する能力が欠けていたのです。このことに、選ばれた民の悲劇があります。彼らは、キリストへの教育、導きとして律法を受け取りました。そしてまさに、律法が原因で、律法の解釈者たちはキリストを死へと送りました。
内的盲目はどうしたらよいのでしょうか。民間の格言は言います。日中の太陽をもってしても、金銭だけを求めている人は、一人の物乞いを見ることは出来ません。権力だけを求めていた人は、「貧しい人は幸い」(マタ5・3)と宣言するメシアの神の国を見ることが出来ませんでした。
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