復活の過越 希望を持っている人のように
『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙編集長、アンドレア・モンダ(Andrea Monda)氏[写真]の4月3日の記事の試訳です。
https://www.osservatoreromano.va/it/news/2021-04/quo-076/come-quelli-br-che-hanno-speranza.html
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復活の過越 希望を持っている人のように
(アンドレア・モンダ氏:2021年4月3日付『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙)
私たちは何に希望を持てるのだろうか。
復活祭が、希望が成就したことによる喜びの祭日であるなら、
今日、私たちの希望は何なのだろうか。何を根拠に希望するのか。
キリスト者は質問を修正しなければならないことを知っている。
「何を」から「誰を」に。
キリストこそ私たちの希望である。
希望するのは難しい。いつも。
世界的な[コロナ]パンデミックの一年の後、今日、それはより難しい。
教皇フランシスコは3月28日の「お告げの祈り」の時にそれを確認した:
「去年、私たちはもっとショックを受けたが、今年、私たちはもっと試練を受けている」。
この大きな「試練」は、あらゆる危機のように、人間の脆さの真実を浮き上がらせた。
教皇がすでに2020年3月27日の祈り[パンデミックのもとでの特別な祈り]で直感したように。
キェルケゴール(Kierkegaard)がすでに170年以上前、『死の病』というエッセイの中で明言したように、「もし、時に存在が、陳腐な経験のオウム返しの知恵を超える恐怖で助けてくれるなら、順応主義は絶望する。つまり、その時、それが絶望であったことが明らかになる」。慣習的な秩序を乱す予期せぬものによって引き起こされる過剰な恐怖や恐れに直面すると、適合主義は崩壊し、絶望し、沈黙する。
しかし、世にあって世に属さず、自分たちの中にある希望についていつでも弁明できるよう備えているキリスト者たちにとってはそうでなく(一ペト3・15)、ゆえに、パウロが書いているように「希望を持たないほかの人々のように」(一テサ4・13)嘆き悲しみ続けることは出来ない。
そして今日、世界で毎日多数の死者が出ていることに関して、この希望は何なのか。
希望は、いつものように、イエスの言葉の中にある。
イエスは友人ラザロの病気の知らせにこのように答える。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」(ヨハ11・4)。
「栄光」という言葉を、聖書解釈学者たちは詳しく説明することが出来るだろうが、
それは勝利至上主義的に読むべきではない。
神が魔法のようにパンデミックを消滅させるという意味ではない。
ディートリヒ・ボンヘッファーは鋭い深さをもって思い起こしている。
「神は苦しみから私たちを救うのではなく、苦しみの中で私たちを救う。
死から私たちを守るのではなく、死の中で私たちを守る。
十字架から解放するのではなく、十字架の中で解放する」。
もし私たちがキリストとともに十字架の上にいるなら、
私たちはまた墓から出ることにおいてもキリストとともにいる。
これが私たちの希望である。
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