教皇フランシスコ 一般謁見(2021年5月12日) 祈りについてのカテキズム:33.祈りの戦い(l combattimento della preghiera) [試訳]

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キリスト教的祈りは、キリスト教的生活全体と同じように、「散歩」ではありません。聖書の中、教会の歴史の中で私たちが出会う偉大な祈りの人たちの誰も、「快適な」祈りをした人はいません。もちろん、オウムのように言葉の繰り返しで祈ることも出来ますが、それは祈りではありません。


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祈りは確かに大きな平和を与えてくれますが、それは内的戦いを通してです。この内的戦いは時に厳しく、人生の中で長い期間続くこともあります。祈ることは簡単ではありません。そのため私たちは祈りから逃げます。祈ろうとするたびに、すぐに頭の中に他の活動が浮かび、その時、それらの活動は最も重要で、最も緊急であるかのように思われます。これは私自身にも起こります:少し祈りに行こう…いや、これをしなければならない、あれをしなければならない…と。私たちは祈りから逃げます。なぜだか分かりません、でも、そうなのです。殆どいつも、祈りを先延ばしにしてしまった後で、他のことはそんなに必要ではなかった、むしろ時間の無駄だった、と気づくのです。敵は私たちをこのように欺くのです。


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すべての神の人は、祈りの喜びだけではなく、祈りが引き起こす不快感や疲労感についても語っています:ある時は、祈りの時間や方法を忠実に守るために、厳しい戦いがあります。何人かの聖人は、何の味もなく、何の有益性も感じずに、何年も祈りを続けました。


沈黙、祈り、集中は難しい訓練であり、時に、人間の本性は反発します。私たちは、世界の他のどこにいてもいいけれど、そこだけは、教会の、祈るためのあのバンコにだけはいたくないと思います。


祈りたいと望む人は、信仰は簡単ではないこと、時に、何の目印もなく、ほとんど完全な闇の中を進むことがあることを思い起こすべきです。信仰生活の中で、暗闇の時があります。このため、聖人はその時を、何も感じられないので「暗夜」と呼びました。それでも私は祈り続ける、と。


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『カテキズム』は、祈りの敵、祈ることを困難にする敵の長いリストを挙げています(2726-2728参照)。


祈りが本当に全能の方に届くのだろうかと疑う人もいます:なぜ神は沈黙しているのか。神が全能なら、ひとこと言って、歴史を終わらせることが出来るのに、と。


捉えがたい神の前で、祈りは単なる心理的な作業であり、もしかしたら役に立つかもしれないけれど、本当のものでも、必要でもない、信じていなくても実践することさえ出来る、と考える人もいます。このように、祈りについての多くの説明があります。


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けれど、祈りの最悪の敵は、私たちの中にいます。『カテキズム』はそれらの敵を次のように呼んでいます:「祈りの戦いとは祈りの中で私たちを襲う挫折感との戦いでもあります。それは、すさみからくる失望、『たくさんの財産』を持っているのですべてを主に差し出すことのできない悲しみ、自分の望みどおりに願いが聞き入れられないという落胆、罪深さを考えてかたくなになる高慢の傷、祈りの無償性に対する反感などとの戦いです」(2728)。それは明らかに要約されたリストであり、もっと長くすることが出来るでしょう。


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誘惑の中ですべてが揺れ動くようにみえるとき、何をしたらいいのでしょうか。霊性の歴史を調べて、すぐ気づくのは、霊魂の師たちが、これまで述べてきたような状況をはっきりと認識していたことです。それを克服するために、それぞれが何らかの貢献を差し出しています:知恵の言葉、または困難に満ちた時代に立ち向かうための提案。それは机上で考えた理論ではなく、経験から生まれた勧めであり、祈りの中で持ちこたえ、忍耐することの大切さを示しています。


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これらの勧めの幾つかを見直すのはよいことでしょう。それぞれが深めるに値するからです。例えば、聖イグナチオの『霊操』は、偉大な知恵の本です。それは自分の生活をどのように整えるかを教えています。キリスト者の召命は積極的参加であり、悪魔の旗の下ではなく、イエス・キリストの旗の下に立ち、困難であっても善を行うことを求める決意である、ということを理解させてくれます。


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試練においては、私たちが独りではないこと、誰かが私たちの傍らで見守り、私たちを保護していることを思い起こしましょう。


キリスト教修道生活の創始者、エジプトの修道者聖アントニオは、祈りが厳しい戦いになるという恐ろしい状況に直面しました。彼の伝記作家である、アレキサンドリアの司教、聖アタナシオは、多くの人にとって危機を伴う年齢である35歳ころ、聖人に起こった最悪のエピソードの一つを語っています。アントニオはある試練に心を乱されましたが、抵抗します。ようやく平静を取り戻した時、主に向かって、ほとんど非難に近い口調で言います。「あなたは、どこにいたのですか。なぜ、すぐに来て、私の苦しみを終わらせてくださらなかったのですか」。するとイエスは答えます。「アントニオ。私はそこにいた。でも、あなたが戦うのを見るために待っていた」(『アントニオの生涯』10)。


祈りの中で戦うこと。ひじょうにしばしば、祈りは戦いです。


私が他の教区にいたとき、間近で体験したことを思い起こします。九歳の娘をもつ夫婦がいました。その娘が原因不明の病気にかかりました。そしてついに病院で、医者が母親に言いました。「奥さん、ご主人を呼んでください」。夫は仕事をしていました。彼らは労働者で、毎日働いていました。医者は父親に言いました。「この子は一晩、もたないでしょう。感染症で、私たちは何も出来ません」。


この父親は、もしかしたら、毎週ミサには行っていなかったかもしれませんが、深い信仰をもっていました。彼は泣きながら外に出て、妻を娘と一緒に病院に残し、電車に乗って、アルゼンチンの保護者である、ルハン(Luján)の聖母大聖堂まで70キロの旅をしました。そしてそこで―それは夜の10時近くで、大聖堂はすでに閉まっていました―、彼は大聖堂の格子にしがみついて、一晩中、聖母に祈り、娘の健康のために戦いました。これは空想ではありません。私自身がそれを見ました。私はそれを体験しました。その人は、あそこで戦っていました。


ついに朝の6時、教会が開き、その人は中に入り、聖母に挨拶しました:一晩中「戦い」、それから家に帰りました。家に着いたとき、妻を探しましたが見つからなかったので、考えました。「娘は死んでしまったのだ。いや、そんなことはない、聖母は私にそのようなことはなさらない」。それから妻を見つけました。彼女は微笑んで言いました。「何が起こったのか分かりません。医者は、病状が変わって、今、娘は治ったと言いました」。祈りながら戦ったその人は、聖母の恵みを受けました。聖母は彼の祈りを聞き入れました。そして私はそれを見ました。


祈りは奇跡を行います。祈りはまさに、私たちを父として愛している神のやさしさの中心に達するからです。また、私たちに恵みを与えてくださらないとき、別の恵みを与えてくださり、それは後になって分かります。でも、恵みを願うために、いつも、祈りの中での戦いが必要です。そうです、時に、私たちは必要としている恵みを願いますが、熱意なしに、戦うことなく願っています。でも、真剣なことは、そのようには願いません。祈りは戦いであり、主はつねに私たちと共におられます。


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もし、時に目が見えず、主の現存に気づくことが出来なくても、後で気づくでしょう。このようにして私たちは、かつて父祖ヤコブが言った言葉を繰り返すでしょう。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしはそれを知らなかった」(創28・16)。人生の最後に、後ろを振り返りながら、私たちもまた言うことが出来るでしょう。「私は独りきりだと思っていた。けれど違った。そうではなかった。イエスが私とともにおられた」。私たちはすべて、そう言うことが出来るでしょう。



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