コンスタンティノポリスの使節代表、カルケドン府主教へのインタビュー 「私たちの時代は、初代キリスト教の時代と大きな違いはない」 (『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』より試訳)
(Andrea Tornielli、2021年6月28日)
カルケドン府主教とのインタビュー
「私たちは、復活したキリストの善い知らせを分かち合うより、キリスト教の存続を考えているのではないか」。
«Temo che stiamo pensando più alla sopravvivenza del cristianesimo che alla condivisione della buona notizia di Cristo risorto».
数か月前にフランスを離れ、カルケドンの教会の称号を得て、コンスタンティノポリスのエキュメニカル総主教座のヒエラルキーのナンバーツーとなった[カルケドン]府主教エマニュエル師。
エマニュエル師は、聖ペトロと聖パウロの祝祭への、バルトロメオ総主教の特使である。彼は、このバチカン・メディアとのインタビューの中で、エキュメニカルな歩みを振り返り、教皇フランシスコの最近の回勅について考察した。福音宣教に関しては、「問題はグローバル化ではなく、私たちと世界との関係ある」ことを思い起こした。
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主教さま、世界のさまざまな場所で、教会は福音を告げ知らせ、信仰を伝達することに労苦しています。グローバル化した世界の課題にどのような答えを出すべきでしょうか。
(答)世界に福音を告げ知らせることは、ストラテジー(戦略)の問題ではありません。私たちは、復活したキリストの善い知らせを伝えることよりも、キリスト教の存続を考えているのではないかと危惧しています。実際、ポストモダニティはあらゆる形態の制度に体系的に挑戦していることがわかります。私たちの教会は、このような現代の世俗化と無縁ではありません。この魔法をとく(disincanto)という現象は現実のものであり、キリストが私たちに招いているように、キリスト者の使命(ミッション)の核心に触れるものです。「わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている。それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタ28・18-20)。この使徒聖マタイによる福音の結びは、疑いの中にある人々に、キリストへの信仰をどのように伝えるかを明確に強調しています。キリストは、私たちの使命のアルファでありオメガです。キリストは、信仰が伝えられていく歩みの中にも、この霊的歩みの終わりにも現存ししています。
故に、キリストを身にまとうこと(ロマ13・14)、つまり、自分の心の最も奥深くで、主の死と復活の神秘を生きること―世の命のために心を捧げ、奉献する前に―以外に答えはありません。
確かに、世界には、キリスト者たちが信仰のために迫害されている地域もあります。確かに、世界には、世俗化がキリスト教を疎外している地域もあります。しかし、私たちが今日経験していることは、初代キリスト教共同体が、300年におよぶ激しい迫害の中で経験しなければならなかったことと大きな違いはありません。当時の文献を見直すことは、今日の私たちにとって大きな重要性をもっています。問題はグローバル化ではなく、私たちと世界との関係です。Lettera a Diognetoのテキストが私たちにそうするよう招いているように、「世に属することなく、世の中にいること」。
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ローマ司教の最近の二つの公文書は、私たちの将来のための重要なテーマについて、他の宗教や信者ではない人々との出会いと討論の可能性を広げています。回勅『ラウダート・シ』や『Fratelli tutti』は、キリスト信者たちがより良い未来を準備するのに、どのように役立つのでしょうか。
(答)あなたが言及した2つの文書には、対話と近づく(avvicinamento)ための素晴らしい機会があると思います。
けれど私はここで、エキュメニカル総主教バルトロメオの重要性を強調したいと思います。環境保護の観点においても、私たちすべてをキリスト者として生かす連帯の精神という観点においても。
実際、エキュメニカル総主教は、長としての30年間の在任中に、自然保護と、他者への配慮(ケア)の間の相互依存を繰り返し強調してきました。
このように世界を霊的に読み解くことで、私たちの確信は解体され、世界とその被造物、それを作り上げている人々を、感謝をもって受け入れるという、キリスト者の責任を認識させます。この、ほとんど秘跡的な統合(sintesi quasi sacramentale)は、彼のおかげです。
被造物全体は、秘跡、その中で神の救いの現存が明らかにされる神秘となります。それは、神が私たちに捧げたものを神に捧げるという、犠牲的なしぐさ(un gesto sacrificale)においてのみ実現されます。
エキュメニカル総主教バルトロメオは、この点について宣言しました:「被造物を尊重し、配慮(ケア)することは、私たちの信仰の不可欠な部分(構成部分:parte integrante)、私たちの、教会における、また教会としての生活の基礎です」。
ですから、教皇フランシスコのこれら二つの文書の中に、対話の機会、そして何よりもエキュメニカルな協力の機会があると思います。キリスト者の一致は、環境保護と他者への配慮(ケア)に関連しています。
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あなたは諸宗教間の対話、特にキリスト教徒とイスラム教徒の間での対話において、著しい経験をもっています。原理主義や、憎しみや暴力を正当化するために宗教を悪用することに直面して、相互理解を深めるためにはどのような歩みが必要ですか?
(答)原理主義や宗教的過激主義の問題は、最近のことではなく、ましてや一つの宗教に限ったことでもありません。多くの研究は、暴力の根源をその宗教的背景から解き明かそうとしています。私は、宗教が他者への憎しみに正当性を与える理想的な犯人になってしまったことを恐れています。
エキュメニカル総主教が、彼のさまざまなメッセ―ジの中で繰り返し明示してきた、1992年のDichiarazione di Berna(ベルヌ宣言)の表現から引用させてください。「宗教の名を借りた犯罪は、宗教に対する犯罪である」(Un crimine in nome della religione è un crimine contro la religione)。この表現の背後には、政治的利益のために宗教を流用しようとする人々から解放された、ひじょうに特殊な宗教観があります。
諸宗教間対話の分野での私の長年の経験は、強調されるのが、宗教というよりも、諸宗教間の対話の必要であることを示しています。
対話は、原理主義や過激主義の乱用を除去することが出来る唯一の武器です。2016年6月にクレタ島で開催された、正教会の聖なる大評議会の回勅は、この意味で豊かです。
L’Enciclica del Santo e Grande Consiglio della Chiesa Ortodossa riunito a Creta nel giugno 2016 abbonda in questo senso。
「率直な諸宗教間の対話は、平和と和解の促進における相互信頼の発展に寄与しています。教会は、『上(天)からの平和』を地上でより明白にするために戦っています。真の平和は武器の力をもってではなく、『自分の利益を求めない』(一コリ13・5)愛をもってのみ得られます。信仰の香油は、他の人々の古い傷をしばって癒すために使われるべきであり、新たな憎しみの温床を再燃させるために使われるべきではありません」(17項)。
«Un franco dialogo interreligioso contribuisce allo sviluppo della fiducia reciproca nella promozione della pace e della riconciliazione. La Chiesa lotta per rendere la “pace dall’alto” più tangibile sulla terra. La vera pace non si ottiene con la forza delle armi, ma solo con l’amore che “non cerca il proprio interesse” ( 1 Corinzi, 13, 5). Il balsamo della fede dovrebbe essere usato per legare e guarire le vecchie ferite degli altri, non per riaccendere nuovi focolai di odio»
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カトリック教会は、地方教会の関与と参加の新しい方法をもって、まさにシノダリティー(sinodalità)に捧げられた、シノドス的歩み(un cammino sinodale)に着手しています。ラベンナ文書は、シノダリティーと、首位権の意見について述べています。これらのテーマについてのエキュメニカルな歩みはどの段階にあるとお考えですか。
(答)教皇フランシスコの直接的影響による、カトリック教会のシノドス的歩みは、正教会にも力強く語りかけています。その意味で、「シノドス的教会のために:交わり、参加、使命(ミッション)」(Per una Chiesa sinodale: comunione, partecipazione e missione)というテーマに集中される、2023年のシノドス(世界代表司教会議)の結論を楽しみに待っています。
私は敢えて、このテーマの選択の中に、私たちのエキュメニカルな関係の実りの一つを見ます。実際、カトリック教会と正教会の間の神学的対話のための、国際共同委員会(Commissione internazionale mista)の最近の文書が、2016年のキエティ以来、シノダリティーと首位権の間の結合(articolazione)に専念しているのは、確かに偶然ではありません。
この点については、この文書自体が必要な光を与えてくれることでしょう。キエティ文書は言っています。「最初の千年期を通して、東方と西方の教会は、使徒的信仰を守ること、司教たちの使徒的継承の継続、首位権と不可分に結びついたシノドス的構造の発展、奉仕(diaconia)と愛としての権威の理解において一致していた。東西の一致が時に乱されることがあっても、東方と西方の司教たちは唯一の教会に属していることを自覚していた」(20項)。
«Durante tutto il primo millennio — ci dice il documento di Chieti — la Chiesa in Oriente e in Occidente era unita nella conservazione della fede apostolica, nella continuità della successione apostolica dei vescovi, nello sviluppo di strutture di sinodalità inseparabilmente legate al primato, e nella comprensione dell’autorità come un servizio (diaconia) di amore. Sebbene l’unità tra Oriente e Occidente fosse talvolta disturbata, i vescovi dell’Oriente e dell’Occidente erano consapevoli di appartenere all’unica Chiesa» (par. 20).
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2025年はニカイア公会議1700周年が祝われ、その年はキリスト信徒たちの復活祭の日付が一致します。この記念のためにどのような準備がなされるのでしょうか。
(答)ご存知のように、復活祭の日付を計算する公式は、ニカイア公会議で定められました。復活祭の日付は、カトリック教会のためのグレゴリオ暦と、正教会のためのユリウス暦という、二つの異なる暦に基づいていますが、現在もこの方法で計算されています。そして日付は一致したり、または最大五週間の違いがあったりします。復活祭を共通して祝うという課題は、第一のエキュメニカルな問題として、徐々に不可欠なものとされています。実際、このテーマで意見が分かれたままで、キリスト教の証しの中心にある神秘の真理を、どのように証しすることが出来るでしょうか。
間近に迫った大聖年は、キリストの体の総体性(integrità)を尊重した、典礼の実践について考察するよう、私たちを招くべきだと考えます。正教会にとって、暦の問題は依然として面倒であり(spinoso)、それが分裂につながることは歴史が示しました。
公会議前の正教会全体(pan-ortodosso preconciliare)の文脈の中でさえ、神学的ではなく、よりアイデンティティーに基づいた二極化現象を生み出すことなく、これに立ち向かうことは出来ませんでした。この公会議の歴史的根拠に基づいて、キリスト教世界全体で同じ日曜日に復活祭を祝うことは、証しと和解の強力なメッセージになるでしょう。
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