教皇フランシスコ 正午の祈り (2021年8月1日:年間第18主日、B年) [試訳]
愛する兄弟姉妹たち、こんにちは!
今日の典礼の中で、福音(ヨハ6・24-35)の最初の場面は、
カファルナウムに向かう幾つかの小舟の動きを示しています。
群衆は、イエスを捜し求めて動きます。
それは、とても良いことのように思われます。
けれど福音は私たちに、神を捜し求めるだけでは十分ではないと教えています。
なぜ神を求めているのか、その動機を自問する必要がある、と。
実際、イエスは明言します。
「あなた方がわたしを捜し求めるのは、徴(segni)を見たからではなく、
パンを食べて満腹したからである」(ヨハ6・26)。
実際、人々は、パンが増える奇跡を経験しましたが、
その行為(しぐさ)の意味を捉えてはいませんでした。
人々は、表面的な奇跡にとどまっていました。
物質的なパンにとどまっていました。
そこだけで止まってしまいました。
それを超えて行くことなしに、その意味にまで到達することなしに。
***
ですからここで、私たちみながすべき最初の問いかけがあります:
私たちはなぜ主を捜し求めているのか?
私の信仰、私たちの信仰の動機(理由)は何か?
私たちはこのことを識別する必要があります。
なぜなら、私たちの人生の中にあるたくさんの誘惑の中で、
「偶像崇拝の誘惑」と呼べるものがあるからです。
それは、私たちの問題を解決するため、
私たちの利益のために、自分たちだけでは獲得することの出来ない恵みを主から得るため、
私たちの利用、消費のために神を捜そうと仕向けるものです。
でも、このような方法では、信仰は表面的なものに留まり、
こう言うことが許されるなら、
信仰は「奇跡主義的なもの」に留まったままです。
私たちは満腹するために神を捜し求め、その後、神を忘れてしまいます。
この「未熟な信仰」の中心にあるのは、神ではなく、私たちの必要です。
私は、自分たちの関心、利益…を考えています。
私たちの必要を、神の心に差し出すことは正当なことですが、
私たちの期待をはるかに越えて行動する主は、
何よりも先ず、私たちと愛の関係で生きることを望んでいます。
そして、真の愛は、利害関係がなく、無償です。
私たちは、お返しに何かを受け取るために愛するのではありません。
それは利害関係です。ひじょうにしばしば、私たちは利害関係で生きています。
***
群衆がイエスに向けた二つ目の質問が、私たちの理解を助けてくれるでしょう。
「神の業を行うには、何をすればよいのですか」(28節)。
それはあたかも、イエスに挑発された群衆が言うかのようです。
「私たちの神への探求を清めるためには、何をしなければならないのですか?
自分の必要だけを考える魔術的な信仰から、神を喜ばせる信仰へと、
どのように移行したらいいのですか?」と。
イエスはその道を示します。
神のわざを行うとは、父である神が遣わされた者を受け入れること、
つまり、イエスご自身を受け入れることだ、と。
宗教的実践を増やしたり、特別な掟を守ることではありません。
イエスを受け入れること、イエスを人生(生活)の中に受け入れること、
イエスとの愛の物語を生きることです。
私たちの信仰を清めるのは、イエスです。私たちだけでは、それは出来ません。
けれど主は、私たちと愛の関係を望んでいます。
私たちが受け取るもの、行うものの前に、愛すべき主がおられます。
利害や計算の論理を超えた、主との関係があります。
***
これは神に関して言えることですが、
人間関係、社会関係においても同じことが言えます。
私たちが、第一に自分の必要を満足させることを求めるとき、
私たちの目的のために人々を使い、状況を利用する危険があります。
どんなにしばしば、私たちは聞くことでしょう。
「あの人は人を利用して、その後、忘れてしまう」。
自分の利益のために人を利用する、それはひどいことです。
人ではなく、利害を中心に置く社会は、生命を生み出さない社会です。
福音は招いています。
私たちを満腹させる物質的パンだけを心配するよりも、
イエスを命のパンとして受け入れ、
イエスとの友情から出発して、私たちが互いに愛することを学ぶように。
無償で、計算無しで。
無償で、計算無しの愛。人を利用するのではなく、無償で、献身的に、寛大に。
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聖なるおとめマリアに祈りましょう。
マリアは、最も美しい、神との愛の物語を生きました。
私たちが、彼女の御子との出会いに自分自身を開く恵みを与えてくださいますように。
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