Sr.ルカの独り言:迫り来るキリスト:待降節第三水曜日(2021年12月15日)

今年度の神学校の授業を終えて、資料作りがひと段落しました。Tomas Spidlik枢機卿さまの日々のみ言葉の黙想の一部分の試訳を分かち合いたいと思います。Spidlik師は、キリストは、私たちとは関係のない遠い将来に「来られるだろう」ではない。キリストの到来は「迫り来る」ものである、と言います。だから、私たちの毎日の善いわざ、一つ一つの祈りが、キリストの再臨の一部を造り出している、と。[以下試訳]


待降節第三水曜日:洗礼者ヨハネの問いかけ(ルカ7・19-23;マタイ11・2-15参照)


ほかの方を待つべきでしょうか?

ユダヤ人たちは「キリスト(メシヤ)」の到来を待っていました。私たちキリスト者は、キリストがすでに来られたことを信じています。しかしこの到来は、新約聖書の物語の始まりに過ぎません。時代の終わりに、キリストは栄光のうちに再び戻って来られます。[…]

私たちは、イエスが神の受肉したみ言葉であることを信じています。このみ言葉をもって、神は人間に明らかにしたいことをすべて語りました。それは、人間が理解したという意味ではありません。キリストの理解において、私たち自身と教会全体は、徐々に成長しなければなりません。


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しばしば私たちは、「教会は変わった、昔とは違う」という声を耳にします。成長するものすべては二つの側面をもっています:「変化するもの」と「同じままのもの(変わらないもの)」。私たちもまた、若い頃とはずいぶん変わりましたが、同じ人間(ペルソナ)のままです。教会のすべての変化も同じです。教会の中には、生けるキリストが存在します。昨日も今日も、そして永遠に変わらないキリスト。ご自分の満ち溢れる背丈にまで成長するキリスト。


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キリストは「来つつある(迫り来る)」(“sta venendo”)

信仰宣言の中で私たちは、「[主は]生者と死者を裁くために来られます」と唱えます。通常私たちはこの節を単純に理解します:世の終わりに、荘厳な行為をもって世の進化を締めくくるために、人の子が天の雲に乗って来るだろう(マタイ24・30参照)と。イコンで、それは次のように描かれています:最上部には、太陽、月、星とともに天の丸天井の巻物を閉じている天使がいます。天と地の創造をもって始まった世界(創世記1・1参照)が終わります。もちろんこれは想像上の表現であり、文字通りに受け取るべきではありません。けれど私たちは、このような偉大な神秘を、イメージを通してでなければ語ることは出来ません。


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曖昧さは、「クレド」のギリシャ語訳、「来られます(来るだろう)」という言葉が、私たちを遠い未来に運んでしまうことに起因しています。それに反して、ラテン語とギリシャ語の原語はともに現在的な意味を持っており、「来つつある」キリスト、つまり、たとえ目に見えない形で起こるとしても、ゆっくりと、しかし確実に私たちの世界に浸透しているキリストの現存に、私たちを置いています。あらゆる善いわざ、あらゆる祈りは、時代の最後におけるキリストの偉大な到来の一部を形成しているのです。日々、キリストは私たちに、より近づいておられ、その期待は日に日に強くなるのです。


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