Sr.ルカの『朝』の独り言:2021年12月16日
主の降誕が近づいている、今日のミサ、第一朗読が心に沁みました。
(待降節第三木曜日:イザヤ54・1-10)
ごく僅かの間、わたしはお前を捨てたが、
大きな憐みをもってお前を集める。
烈しく怒って、僅かの間、
わたしはお前から顔を隠したが、
永遠の慈しみをもってお前を憐れむと、
お前の贖い主は仰せになる。(イザヤ54・7-8)
山が移され、丘が揺らごうとも、
わたしの慈しみがお前から移されることはなく、
わたしの平和の契約が揺らぐことはないと、
お前を憐れむ主は仰せになる。(イザヤ54・10)
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正教会神学者、オリヴィエ・クレマン師(Olivier Clément)(+ 2009)は、教会の教父たちの伝統を語りながら、「祈り」は、神を私たちに引き寄せるのではなく、いつも私たちのそばにおられる神に、私たちを近づけるものだ、と書いています。[試訳]
祈りは、神を私たちの方に引き寄せようとするのではありません。聖アウグスティヌスが言うように、神は私たち自身よりも私たちに近い存在ですから。祈りの目的は、対話が出来るに十分なまでに、私たちを神に近づけること、そして、神の近さを私たちに認識させることです。「主よ、すべてはあなたの中にあり、私自身もあなたの中にあります。私を受け入れてください」と、ドストエフスキーの『未成年』の中で巡礼者Macariusは言います。
(参考資料)
Olivier Clément, The Roots of Christian Mysticism. Texts from the Patristic Era with Commentary, New City Press, 2019 (15th Printing [2nd Edition]).
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教皇フランシスコは、昨日(2021年12月15日)の一般謁見で、聖ヨセフについてのカテキズム、第四回目、「聖ヨセフの沈黙」について話しています。一部試訳です。
福音書は、ナザレのヨセフの言葉を一つも記録していません。何も。彼はまったく話しませんでした。これは、彼が寡黙であったということではありません。違います。もっと深い理由があるのです。ヨセフはその沈黙によって、聖アウグスティヌスが書いていることを裏づけます。
「私たちの中で、み言葉、つまり人となられたみ言葉が成長するにつれて、言葉は減少する」。
この聖アウグスティヌスの言葉は、日本語訳だとはっきりしませんが、英語では次のようになります。
“To the extent that the Word – that is, the Word made man - grows in us, words diminish”
「み言葉」(the Word)は(定冠詞、大文字、単数形):唯一の、神のみ言葉であるイエス・キリストを意味し、「言葉」(words)は(小文字、複数形):多くの言葉、私たちの言葉を意味します。
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教皇自身も説明しています。
霊的生命であるイエスが成長するにつれて、言葉は減少します。オウムのようにしゃべり続ける、「オウム返し」と定義することが出来るものが、少しは減少します。
洗礼者ヨハネは、神の「声」であり、人々が神の「み言葉」を受け入れる準備をしました。ですから「み言葉」そのものである方が現れたとき、「声」は「み言葉」に場所を譲ります。ヨハネは自ら「私は衰えなければ(減少しなければ)ならない、と言います。
「主の道を整えよ」と荒野で叫ぶ声(マタイ3・1)である洗礼者ヨハネ自身が、「み言葉」について言います:「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」(ヨハネ3・30)。
つまり、み言葉である彼が語り、私は沈黙しなければならないという意味です。ヨセフはその沈黙によって、「肉となったみ言葉の存在」、すなわちイエスご自身に空間(場所)を空けるよう、私たちを招いているのです。
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聖ヨセフの沈黙は、神のみ言葉であるイエスに空間(場所)を空ける、「積極的な」沈黙でした。そして、マリアの「思い巡らす」心は、み言葉の住まいとなりました。
待降節、私たちの「超」忙しい日々の中で、一瞬、立ち止まり、私たちの神の生命を養うみ言葉に耳を傾けることが出来ますように。祈りつつ。
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