Sr.ルカの独り言:2021年12月22日(降誕三日前)

ルカによる福音1・46-55


(参照)Tomáš Špidlík, Il Vangelo di tutto l’anno, Lipa, Roma 2020.


主が、身分の低い仕い女に、目を留めてくださった」。この節は、「マニフィカト」の賛歌の中心となるテーマを表わしていて、まるでおとめマリアの人生の意味をすべて語っているかのようだ、とTomas Spidlik師は述べています。


マリアは最も偉大な聖人であり、天使たちの女王、殉教者、証聖者の女王ですが、彼女の真の偉大さはどこにあるのでしょうか。


マリアは殉教者として死んだのでもなく、断食の記録もなく、隠遁者のような生活をしたわけでもなく、修道者でもなく、誰かに説教をしたわけでもありません。このようなことは、教会の歴史の無数の聖人たちの伝記の中に満ちています。彼らは、これらの聖性の外面的な現われにおいて、マリアを超えています。


それでは、マリアの偉大さはどこにあるのでしょうか。Spidlik師は答えます。


しかし、謙遜においてマリアを超えた人は誰もいません。彼女の人生は、天使に答えて発した「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1・38)という言葉の成就でした。


「お言葉どおり、この身になりますように」、つまり、主の望み、主のみ心が、私の中で実現しますように、とマリアは答えます。これが謙遜であるということです。


謙遜とは、神が働けるように場所を譲ることです。謙遜は、神ご自身の内奥の命の反映です。御子は御父のみ心をすべて果たし、まさに、それゆえに「子」なのです。


教会の教父たちの口伝の伝承の中に、悪魔と修道士の対話が描かれています。


悪魔は修道士に言います。「あなたは早く起きるが、私は眠ったことがない。あなたは断食するが、私は何も食べない。私に出来ないことはただ一つ、謙遜になることだ」。


まさに、謙遜は、他のすべてのキリスト教の徳の根源なのです。


***

しかし、とSpidlik師は考察します、マリアは、主の最も謙遜な仕え女として自分を示した直後に、「今から後、いつの時代の人々も、わたしを幸いな者と呼ぶでしょう」と付け加えます。それは一見、矛盾した態度のように見えます。


謙遜でありながら、自分をこのように高く評価することが出来るのでしょうか。


異教の知恵者たちは、中道、つまり妥協の道を選びます。自分のことを高く評価し過ぎず、低く評価し過ぎないこと。


けれど、キリスト教は異なる、とSpidlik師は言います。


聖アウグスティヌスは、謙遜を木に例えています。下には根を張り、上には木の葉を高く上げる。神の目にへりくだる人は、同時に偉大な人になります。ニュッサの聖グレゴリオスの美しい表現によれば、「謙遜とは、上に向かって降りていくこと」です。

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