Sr.ルカの独り言:2022年2月8日 教皇フランシスコ「世界奉献生活者の日」の説教より
教皇フランシスコは、2022年2月2日、主の奉献の祝日、世界奉献生活者の日のミサ聖祭の説教の中で、その日の福音(ルカ2・22-40)から、老シメオンの三つの動き(動かされ、見て、受け入れた)を考察しました。その一部を見てみましょう。
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年を取ったシメオンとアンナは、イスラエルの民への、神の救いの約束の実現を待っていました。彼らの待つ態度は受け身ではなく、「動きに満ちて」いました。シメオンの「動き」を追ってみると、
彼は先ず、霊によって動かされ(è mosso)、次に幼子の中に救いを見て(vede )、最後に彼を腕の中に迎え入れます(accoglie)(ルカ2・26-28参照)。
この三つの動きを単純に見つめ、私たちにとって重要な問いかけによって貫かれるに任せましょう、と教皇は招きます。
① 私たちは、何によって動かされているのか
第一の動き。福音は、シメオンが「霊によって導かれた」と言っています(ルカ2・27参照)。
聖霊こそが、シメオンの心の中に神への渇望を燃え上がらせ、魂(animo)の中に待望を生き生きとさせ、神殿に向かう歩みを後押しし、彼の目が「メシア(救い主)」を認めることが出来るようにするのです――たとえメシアがご自分を小さく貧しい幼子としてご自分を示したとしても――。
教皇フランシスコは繰り返し、日常の中に、小ささ、脆さの中に、神を認めるよう招きます。
[聖霊は]神の現存、神のわざを、大きなことや派手な外見、力の誇示の中にではなく、小ささ(piccolezza)、脆さ(fragilità)の中に見分けることが出来るようにします。
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十字架を考えてみましょう。そこにも、小ささ、脆さ、そしてドラマ性(drammaticità)があります。けれど、そこに神の力があります。
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私たちは、聖霊の内的動きに敏感にならなければなりません。私たちを動かしているのは、神の霊なのか、この世の霊なのかを識別しなければなりません。
「霊によって動かされる」という表現は、霊性の中で「霊的な促し(原動力)(mozioni spirituali)」と呼ばれるものを思い起こさせます。それは、私たちの内に感じる魂の動きであり、私たちは、それが聖霊から来るものかどうかを識別するために、耳を傾けるよう招かれています。霊の内なる動きに敏感であること。
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[神の]「霊」が、幼子の小ささ、脆さの中に神を認めるよう導く一方で、私たちは時に、自分たちの奉献(聖別)を、結果や目標、成功の観点から考える危険を冒します。私たちは、スペース、目に見えること、数を求めて動きます。それは誘惑です。「霊」はこれを求めません。「霊」は、私たちが、託された小さなことに従順であることによって、日々の忠実さを育むことを求めます。
もっと広いスペースを支配したい、人目につきたい、数を増やしたい…というのは、自然な望みです。しかしそのような心の動きは、小ささの中で働かれる神のわざを見失わせます。日々、自分たちに委ねられたことに忠実であるときにこそ、神の力が働くのです。シメオンとアンナは、聖霊に導かれていたので、決して落胆せずに待ちました。
シメオンとアンナの忠実さは、何と美しいことでしょうか。彼らは毎日、神殿に出かけて行き、毎日、待ち、祈りました。たとえ時が経過し、何も起こらないように見えたとしても。彼らは、生涯、待ち望んでいました。落胆することも、不平を言うこともなく。「霊」が彼らの心の中に灯した希望の火を燃やし続けながら、毎日、忠実であり続けました。
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教皇は、奉献生活者たちに、何が自分たちの日々を動かしているのか、と問いかけます。
どんな愛が、私たちを駆り立て、前に進ませているでしょうか。聖霊でしょうか、または、その時の情熱や、その他のものでしょうか。
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教会や社会の中で、私たちはどのように動いているでしょうか。時に、善いわざの外見の裏に、自己愛の虫や、自分が中心になりたいという願望が隠れていることがあります。またその他の場合において、多くのことを行っていても、修道共同体が聖霊に忠実であることへの熱意によって動かされているというよりも、機械的な繰り返しによって(ものごとを習慣で行うだけ、とにかくやればいいというように)動かされていることがあります。
私たちの内なる動機を確認し、霊的な促し(原動力)を識別すること。奉献生活の刷新は、まずここから始まるのです。
② 私たちの目は何を見ているのか
信仰は、神のいつくしみ深いまなざしから生まれます。聖霊に導かれたシメオンは、宣言します。「わたしはこの目で、あなたの救いを見ました」(30節)。それは「信仰の奇跡」です。「信仰は、目を開き、まなざしを変容し、視界を変えます」。
福音書の中の、イエスの多くの出会いから分かるように、信仰は、神のいつくしみ深いまなざしから生まれます。神は、そのまなざしをもって、私たちを見つめます。私たちの心の固さを溶かし、傷を癒し、私たちに、自分自身と世界を見るための、新しい目を与えながら。
イエスのまなざしから生まれる信仰は、「自分について、人々について、私たちが経験しているすべての状況(最も苦しい状況であって)について」、「新しいまなざし」、神のいつくしみのまなざしで見ることを可能にします。
それは、「内面を見る」、「さらに向こうを見る」ことの出来るまなざしです。
外見に留まらず、脆さや失敗のひびの中にも入ることを知っている目のことです。そこに、神がおられることを見分けるために。
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主は私たちに絶えず合図(サイン)を与えてくださいます。「奉献生活の刷新されたビジョン(una visione rinnovata)を育むよう招くために」。しかし、その合図に気づくためには、「聖霊の光、聖霊の動きのもとにいることが必要です」。私たちは「硬直した」心を癒していただく必要があります。
「主の合図」を見ぬふりをして、何もなかったかのように居続けることは出来ません。いつものことを繰り返し、変えることへの恐れで麻痺し、惰性で過去の形の中にだらだらと居続けることはできません
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信仰は、博物館に保管されている、動かない、死んだものではなく、今日、私たちを動かすもの、私たちを、キリストにおける生活の中で生き生きとさせるものです。
私は何度も言ってきました。今日、[自分たちの]安全のため、恐れのため、信仰を守るため、創立時のカリスマを守るため…[という理由をつけて]、後ろに戻ろうという誘惑があります。それは誘惑です。後ろに戻って、硬直的に(厳格に)「さまざまな伝統」を守ろうとする誘惑。頭に叩き込んでおきましょう。硬直(厳格)は退廃(堕落)です。あらゆる硬直の下には、深刻な多くの問題があります。
私たちの心が「硬直」しているとき、修道会のカリスマさえ、博物館の置物になってしまいます。私たちが慣習に閉じこもるとき、聖霊が運ぶ「新しさ」は、妨害するもの、ネガティブなものに映ります。イエスのやり方に逐一反対した人々は、イエスの「新しさ」が、自分たちの宗教的慣習を壊すものだと思い、我慢できませんでした。そのようにして、神がモーセに与えた律法を完成に導くイエスのわざに反対しました。
他方で、旧約の民の中にも、「サプライズの神」の「新しさ」に開かれていた人もいました。
シメオンもアンナも、硬直していませんでした。[…]彼らは自由であり、祭りを祝う喜びを持っていました。シメオンは主を賛美し、母に向かって勇気をもって預言しました。アンナは、善良なおばあさんのように、「これを見てください、これを見てください!」と言いながら、あちらこちらに行きました。二人とも、希望に満ちた目で、喜びをもって告げました。過去の惰性、硬直性は、まったくありませんでした。
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イエスに出会い、イエスに見つめられることによって、私たちの目は開かれます。その時、私たちは、聖霊が、まさに「危機を通して」「不足している数を通して」「不足している力を通して」、私たちの共同体を刷新するよう招いていることに気づきます。
それでは、危機、数の不足、力の不足の中で、どうすればよいのでしょうか。
聖霊が、私たちに道を示してくださいます。私たちは、勇気をもって、恐れずに、心を開きましょう。
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[シメオンとアンナは]年を取っていても、もはや戻らない過去を嘆いて日々を過ごすのではなく、彼らのところに来ようとしてる未来に向かって腕を広げます。
シメオンとアンナのように、今日、主の前に、礼拝のうちに立ち、どんな小さなことの内にも、「善いことを見ることの出来る目、神の道を見分けることが出来る目を願いましょう」、と教皇は呼びかけます。
善いことの中に、神の救いの小さな種があります。私たちがそれを、心を開いて受け入れさえすれば、神は、私たちの不足、弱さ、脆さの中で、その種を成長させてくださいます。「私たちがそれを求めれば、主は与えてくださる」ことを信じ、「喜びをもって、剛毅(不屈の精神)をもって、恐れずに」前に進むことが大切です。
③ 私たちは腕の中に何を抱きしめているのか
最後に、三つ目の問いかけ。「私たちは腕の中に何を抱きしめているでしょうか」。
シメオンは腕の中にイエスを迎え入れ(受け入れ)ました(28節参照)。それは福音の中でも唯一の、優しく、意味深い場面です。神はご自分の御子を、私たちの腕の中に置いてくださいます。イエスを迎え入れることは本質であり、信仰の中心だからです。
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時に、私たちは、たくさんのことの中に自分を見失い、混乱し、二次的な側面に執着したり、すべきことの中に埋没したりする危険にあります。けれど、すべてのことの中心はキリストです。キリストを、私たちの人生の主として迎え入れるべきです。
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シメオンは、腕の中にイエスを抱いたとき、祝福、賛美、驚きの言葉を発します。
私たちはどうでしょうか。長年の奉献生活の後、驚く能力を失ってしまったでしょうか。それとも、まだその能力を持っているでしょうか。それについて吟味してみましょう。もし、驚きを見出せない人がいたら、驚きの恵みを求めてください。神が、私たちの中で行っている、不思議な驚くべきことの前での驚き。それは隠されています。シメオンとアンナがイエスに出会ったときのように。
日々の営みの中に隠されている神のわざへの驚きが、賛美、祝福の言葉を生み、私たちの生活を喜びで満たします。もし私たちに、神を祝福する(たたえる)言葉、人を祝福する言葉が欠けているなら、喜びが欠けているなら、驚きが欠けているなら、それは、誰かのせい、何かのせいではありません、と教皇は言われます。
本当の理由は、私たちの腕が、もはやイエスを抱きしめていないということです。奉献された人の腕が、イエスを抱きしめていないとき、その腕は空虚さを抱きしめることになり、他のもので満たそうとします。けれどそこには空虚さがあります。私たちの腕で、イエスを抱きしめること。これがしるしであり、歩みであり、刷新の「レシピ」なのです。
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私たちが、イエスを抱きしめていないとき、私たちの心は「苦々しさ」の中に閉じこもります。
苦々しい奉献生活者たちを見ることは、悲しいことです。その人たちは、うまく行かないことに対して文句を言うことの中に閉じこもっています。いつも何かに不満をもっています。長上に、兄弟たちに、共同体に、食事に…。その人たちは、不満が無ければ、生きていけないのです。
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シメオンのように、礼拝の中でイエスを抱きしめること。もし私たちが腕を広げてキリストを迎え入れるなら、私たちは信頼と謙遜をもって人々をも迎え入れるでしょう。「キリストに、そして兄弟たちに腕を開きましょう。イエスはそこにおられるのです」。
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三つの問いかけ。①私は何によって動かされているのか。シメオンは「霊に導かれて」神殿に入り、主と出会いました。②私は何を見ているのか。シメオンとアンナは、小さな幼子の内に、主を見ました。③私は何を抱きしめているのか。シメオンは腕に救い主を抱きしめました。この問いかけをしながら、「今日、熱意をもって、私たちの奉献を刷新しましょう」。
労苦や疲れはあります。失望もあります。それは自然なことです。けれど、シメオンとアンナのように、「忍耐と信頼をもって主を待ち、出会いの喜びを奪われないようにしましょう」。そして「出会いの喜びに向かって行きましょう。主を中心に置き、喜びをもって前に進みましょう」。
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