「ペトロの体」 ルイジ・マリア・エピコッコ(Luigi Maria Epicoco)社説 ((『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』、2022年7月28日) (試訳)
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イエスがご自分の命をかけて発足させたものは、
言葉のかたわらにある体の必要性である。
あらゆるキリスト者にとって、
イエスは、肉となられた「み言葉」である。
それは、キリスト教信仰は、
ものごとについて言うことと、自分の身体的存在でものごとを満たすことの違いを
よく知っている、ということだ。
例えば、復活(過越)の出来事は、
単なるニュースではなく、
復活した主の体自身との、すべてをひっくり返す経験の連続である(ルカ24・39)。
もし、復活が事実ではなく、単に人生についての一つの視点に過ぎないとしたら、
キリスト教全体は崩れ去るだろう。
それに反して、キリスト教のクレド(信条)全体は、
「み言葉・存在(una Parola/Presenza)」の体の上に
築かれていると言うことが出来るだろう。
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子供でも、単なる言葉と体の違いは知っている。
子供は、母親から愛情の言葉によって包まれるだけでは満足しない。
母に触れ、自分の体で母の抱擁を感じる必要がある。
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だからこそ、教皇は旅をする。
ローマに留まって、単に言葉を発するだけではなく。
教皇は、語る相手の前での自分の身体的存在が、
自分のメッセージを、より真実に、より具体的に、
より信頼できるものにすることを知っている。
それは、聖パウロ六世から始まって、
ペトロの「身体的宣教」であることに戻り、
ペトロの後継者として普遍教会の上に行使する単なる法的使命に対して、
再び卓越することに戻った、宣教実践の再発見である。
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これが、現在の弱さを抱えた年老いた一人の人が、
傷ついた人々への最も信頼できるメッセージとして、
自分の体を差し出しながら、地球の裏側まで行った理由である。
実際、話す必要さえないだろう。
教皇のまなざし、身振り、
涙に、物語に、希望に身を委ねる柔和さは、
どんな文章よりも雄弁である。
この年老いた人が、
どのように見つめ、祈り、心を動かし、接吻し、
抱擁されるに任せ、民族衣装を身にまとうまでの姿を見るなら、
彼の存在がすでにメッセージであることを理解するに十分だろう。
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教皇フランシスコは、福音が私たちに教えた方法で、そこにいる。
ものごとを名前で呼び、近しさを実践しながら。
イエスが悪霊を名前で呼び(マルコ5・9)。
試練や苦しみにある人々の隣人となったように(使徒10・38)。
この旅の意味の他のあらゆる単純化は、
もっと偉大で、もっと複雑なものを裏切ることになるだろう。
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だから、この年老いた人は、地球の裏側から、
すべての人に対して「挑発」として留まる。
特に、力の誇示と一体化し、
証拠を偽造することで信頼性が得られると考える、
今の私たちの世において。
それに反して、「弱さ」と「真実」が、
教皇フランシスコの真の強さなのである。
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