教皇フランシスコ カナダ司牧訪問 ミサ説教 サンタンヌ・ド・ボープレの巡礼聖堂(2022年7月28日)

(Santuario Nazionale di Sainte Anne de Beaupré)

(試訳:小見出しは訳者による)

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エマオの弟子たちの旅


聖ルカの福音の最後にある、エマオの弟子たちの旅は、私たち個人の歩みと教会の歩みのイメージです。


人生の道、信仰生活の道において、

私たちは、夢、計画、期待、希望を抱きながら、

同時に、自分の脆さや弱さに直面し、失敗や落胆を経験し、

時には、私たちを麻痺させる挫折感に囚われてしまいます。


福音は私たちに、

まさにそのような時、私たちは独りではないと告げています。

主が、私たちに会いに来てくださり、傍らに立ち、

私たちと同じ道を歩んでくださいます。

私たちの目を再び開き、心を再び燃え立たそうとする

やさしい旅人のような思慮深さをもって。


そして、挫折が、主との出会いに空間を譲る時、

人生は希望に生まれ変わり、

私たちは、自分自身と、兄弟たちと、神と、和解することが出来るのです。


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挫折から希望への歩み


ですから、この歩みの行程をたどってみましょう。

それは、挫折から希望への歩みと呼ぶことが出来るでしょう。


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何よりも先ず、イエスの死後、

この二人の弟子たち心の中に宿っていた挫折感があります。

彼らは、熱意をもって夢を追いかけました。

イエスの内に、自分のすべての希望と望みを託しました。


今、十字架における躓きの死の後、

彼らはエルサレムに背を向け、

家に、以前の生活に戻ろうとしています。


彼らの旅は、戻る旅です。

彼らの心を苦渋で満たした、あの経験、

十字架上で犯罪人として殺された、あのメシアを、忘れ去りたいかのように。


彼らは「暗い顔(悲しい顔)をして」(ルカ24・17)、

意気消沈して家に帰ります。

自分たちが培ってきた期待は無に帰し、信じていた希望は粉々に砕かれ、

叶えたいと願っていた夢は、失望と苦渋に満ちたものとなってしまいました。


***

これは、私たちの人生、霊的歩みそのものにも関わる経験でもあります。

期待を縮小し、

現実の不明確さ、人生の闇、自分たちの弱さと折り合いをつけることを

余儀なくされるあらゆる場面において。


それは、私たちの理想が現実の失望とぶつかり合い、

私たちの意図が、自分の弱さのために守られず、

善の計画を立てても、それを実現する能力がないとき(ローマ7・18参照)に

起こります。


それは、進めている活動や人間関係において、

遅かれ早かれ、何らかの敗北、転落を経験し、

他方で、私たちが信じていたものや、専念していたことが崩れるのを見るとき、

私たちの罪や罪悪感に押しつぶされそうになるときに起こります。


***

アダムとエバ


そしてこれは、私たちが第一朗読で聞いたように、

アダムとエバに起こったことです。

彼らの罪は、彼らを神から遠ざけただけではなく、

互いをも遠ざけました。

彼らは、ただ非難し合うだけしか出来なくなりました。


そして、私たちはそれを、エマオの弟子たちの中にも見ます。

イエスの計画が崩れ去るのを見た不安は、

ただ不毛な議論にしか場所を残しません。


そしてそれは、

エマオの二人の弟子が象徴している、

主の弟子たちの共同体である教会の生活においても、起こり得ることです。


復活の主の共同体でありながら、

カルワリオの躓き(スキャンダル)と暴力の前で失望し、

迷って当てもなくさまよっていることがあります。


そのとき、共同体は、失敗の感覚を手の中に握りしめ、

自問することしか出来ないのです。

何が起こったのか。なぜ起こったのか。なぜそんなことが起こり得るのか。


***

弟姉妹のみなさん、

それは私たち一人ひとりが自分に問いかけている問いかけです。

それはまた、この、カナダの旅する教会が、

癒しと和解の困難な歩みの中で、

自分の心の中に響かせている緊迫した問いかけでもあります。


私たちもまた、

悪の躓き(スキャンダル)と、

私たちの兄弟である先住民の人々の肉において傷ついた、キリストの体の前で、

苦渋に陥り、失敗の重さを感じているのです。


ですから、私が、

イエスが昇ったピラトの邸宅への坂を思い起こす

「聖なる階段」を歩く多くの巡礼者たちと

霊的に結ばれることを許してください。

そして、痛みに満ちた心から生まれるこれらの問いかけの中で、

教会としてあなた方に寄り添うことを許してください。

なぜこのことすべてが起こったのか。

イエスに従う者たちの共同体において、どうしてこのようなことが起こり得るのか。


***

逃げる誘惑


しかしここで、

福音の二人の弟子たちに見られる、

逃げる誘惑に警戒しなければなりません。

逃げること、道を引き返すこと、

出来事が起こった場所から逃げ出し、

出来事を取り除こうとし、

出来事を忘れるために、エマオのような「静かな場所」を求める誘惑。


人生の失敗の前で、それに立ち向かわないために逃げることほど

最悪なことはありません。


それは、私たちの霊的歩み、教会の歩みを脅かす、敵の誘惑です。

その失敗がもはや決定的であると私たちに信じさせようとし、

苦々しさと悲しさの中で私たちを麻痺させようとし、

もはや何もするべきことはなく、

ゆえに、再出発するための道を見つけようとするのは無駄だと確信させようとします。


***

挫折のただ中で、主が私たちの傍らに来られ、共に歩んでくださる


それに反して、福音は私たちに明らかにしています。

まさに失望と苦痛の状況の中に、

まさに、悪の暴力と、罪悪感の恥を、茫然と経験するときに、

私たちの人生の川が、罪と失敗の中に枯渇するときに、

すべてをはぎ取られ、何も残っていないように思えるときに、

まさにそこに、主は私たちに会いに来られ、私たちと共に歩んでくださると。


エマオへの道で、

主は、悲しみに沈んだ弟子たちの落胆した歩みに寄り添い、共有するために、

控えめに傍らに来られました。


そして何をなさったでしょうか。

一般的な励ましの言葉や、

お決まりの表現や、安易な慰めを差し出すのではなく、

彼らの物語、彼らが経験した出来事を照らします。

このようにして、彼らの目を、物事への新しいまなざしへと開きます。


この大聖堂でエウカリスチア(聖体祭儀)を分かち合う私たちもまた、

歴史の中のさまざまな出来事を読み直すことが出来ます。


この地には、以前、三つの寺院がありました。

そこには、困難を前にしても逃げ出さず、

自他ともに過ちを犯しても、夢に立ち返り、

百年前の大火事にも負けず、

勇気と創造性をもってこの寺院を建てた人々がいました。


そして、近くの「アブラハムの平原」から聖体祭儀を共有する人たちもまた、

戦争の憎しみ、破壊、苦痛の人質となるに任せず、

再び、町と国を計画することを知っていた人々の心を感じることが出来るでしょう。


***

最後に、エマオの弟子たちの前で、

イエスはパンを裂き、彼らの目を再び開き、

もう一度、ご自分の友のために命を与える愛の神として、ご自身を現します。


このようにして、彼らが、喜びをもって再び歩み始めること、

再出発すること、失敗から希望へと通過することを助けます。


兄弟姉妹の皆さん、

主は同じことを、私たち一人ひとりに、ご自分の教会にすることを望んでいます。

私たちの目は、どのように再び開くことが出来るでしょうか。

福音を通して、私たちの心は、どのように再び燃え立つことが出来るでしょうか。


私たちが、さまざまな霊的、物質的試練によって苦しんでいるとき、

より公正で兄弟愛に満ちた社会に向かう道を模索しているとき、

私たちの失望や疲れから立ち直る(回復する)ことを願っているとき、

過去の傷から癒され、神との和解、私たちの間での和解を望んでいるとき、

何をすればよいのでしょうか。


***

唯一の道:「道」であるイエス


道はただ一つです。それはイエスの道です。

道であるイエスです(ヨハネ14・6参照)。


C’è una sola strada, una sola via: è la via di Gesù, è la via che è Gesù (cfr Gv 14,6).


イエスが私たちの歩みの傍らにおられることを信じ、

イエスが私たちに会いに来られるのに任せましょう。


イエスのみ言葉が、

私たちが個人として共同体として生きている歴史を解釈し、

私たちに、癒しと和解の道を示すに任せましょう。

共に、信仰をもって、エウカリスチアの「パン」を裂きましょう。

この食卓の周りで、

私たちが御父の愛する子であり、すべての人が兄弟であることを

再び見出すことが出来るように。


イエスは、パンを裂きながら、

弟子たちがすでに、女性たちからの証しとして受け取っていながら、

信じようとしなかったこと、イエスが復活された!ことを確かなものにします。


おとめマリアの母を思い起こし、

また、無原罪の御宿りに捧げられた地下聖堂のある、この大聖堂の中で、

私たちは、神が、ご自分の救いの計画において女性に与えることを望んだ役割を

強調せずにはいられません。


アンナ、最も聖なるおとめマリア、復活の朝の女性たちは、

私たちに、和解の新しい道を示します。

多くの女性たちの母のやさしさは、

教会として、私たちに寄り添ってくれるでしょう。

たくさんの不毛や死を後に残し、

中心に、十字架につけられて復活したイエスを再び置くことのできる、

新たに実りある時代に向かって。


***

実際、私たちの問いかけ、私たちが内に運んでいる疲労、

司牧生活そのものの中心に、

自分自身や、自分たちの失敗を置くことは出来ません。

主イエスを置かなければなりません。


あらゆることの中心に、イエスのみ言葉を置きましょう。

それは、出来事を照らし、私たちに、神の愛の働きと、

一見失われたように見える状況の中でも、

善の可能性を見るための目を回復させます。


あらゆることの中心に、エウカリスチアの「パン」を置きましょう。

イエスは、今日も、

ご自分の命を私たちの命と共有するために、

私たちの弱さを抱き、疲れた歩みを支え、

心の癒しを与えるために、

私たちのために「パン」を裂いてくださいます。


そして、神と和解し、他の人々と和解し、そして自分自身と和解することで、

私たちもまた、私たちが生きている社会の中で、

和解と平和の道具となることが出来るのです。


***

私たちの命、力、慰めである主イエスよ、

エマオの弟子たちのように、私たちはあなたに願います。

「私たちと共にいてください。夕方になりますから」(ルカ24・49)。


主よ、私たちと共にいてください。

希望が沈み、失望の暗い夜が来るときに。


私たちと共にいてください。

イエスよ、あなたが共におられるなら、

歩みの方向は変わり、

不信の迷い道から、喜びの驚きが再び生まれるからです。


主よ、私たちと共にいてください。

あなたが共におられるなら、

苦しみの夜は、命の輝く朝に変わるからです。


単純に言いましょう。

主よ、私たちと共にいてください。

あなたが私たちの傍らを歩いてくださるなら、

挫折は、新しい命の希望へと開かれるからです。アーメン。




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