教皇フランシスコ 「アルファ・ユース・キャンプ」に参加している若者たちへの話 ~神は、質問を愛しておられる~ (2022年8月5日) [試訳]

教皇フランシスコは、8月5日、イタリア南部モリーゼ州で開催されている若者の集いの参加者らに挨拶をおくられた。マッキア・ディセルニアで開催中の「アルファ・ユース・キャンプ」は、イセルニア=ヴェナフロ教区が主催した青少年のためのイベントで、イタリアと世界各国からおよそ400人が参加し、対話や文化的交流を行っている。参加者の若者たちはこの日、司教と共にローマを巡礼、バチカンで教皇との出会いを持った。[バチカン放送HPより]

***

愛する若者たち、[…]


あなた方は、教皇に会うために、

一日、モリーゼの丘を離れてローマに来てくれました。

このことに感謝します!

それは、わたしにとって、そして教会にとっての贈り物だと感じています。


***

あなた方は、イタリアや、他のヨーロッパ諸国からの若者たちです。


あなた方は、「世俗化」と定義されている背景(コンテキスト)、

つまり、文化が、聖なるものの次元ではなく、

世界の現実によって支配されているところに生まれました。


けれど、人間の心の中の無限への渇望は、決して消えません。


情報科学によって成長したあなた方の中にも、

あらゆる時代の偉大な問いかけが浮かび上がってきます。


私たちはどこから来たのか。すべてのものの始まりには何があるのか。

私の存在の意味は何なのか。


そして、なぜこんなにたくさんの苦しみがあるのか。

なぜ、子どもや無防備の人たちをも襲うのか。


神は、質問をとても愛しておられることを知っていますか。

ある意味で、神は、答えよりも質問を愛しておられるのです。

なぜでしょうか。それは明らかです。

答えは閉じていて、質問は開かれているからです。


答えでしか生きていない人は、

閉じて、閉じて、閉じることに慣れている人です。

質問で生きている人は、

開いて、開いて、開くことに慣れている人です。


そして、神は、質問を愛しておられます。


実際、イエスは、ヨルダン川のほとりで、

ご自分に従ってきた最初の二人に向かって、

「何を求めているのか」(ヨハネ1・38)という言葉、質問を投げかけました。


イエスは、答えを与える前に、

「私は何を求めているのか」という本質的な質問を自分にするよう教えておられます。


そして、あなた方一人ひとり、自分自身にこの問いかけをしなければなりません。

「私は何を求めているのか」。


自分に、この問いかけをする人は、たとえ80歳であっても若いのです。

自分に、この問いかけをしない人は、たとえ20歳であっても年寄りです。

そう思いませんか。


***

先週、私はカナダに行き、先住民の人々と会いました。

彼らの先祖たちは、植民地化される前から、その土地に住んでいました。

彼らは、先祖代々の、さまざまな価値や伝統を守りながら、

ひじょうに近代的で、世俗化された国に住んでいます。


今、あなた方を見ながら、あの先住民の若者たちのことを考えました。

あなた方とはひじょうに異なりますが、

ひじょうに似ています。むしろ、もっと言うと、まったく同等です。


人間性において、同等です。

私たちが人間であることを特徴づけるもの、

つまり、自由、無償性、自己贈与における、

神、人々、被造物、そして自分自身との関係という意味で、同等です。


この関係は、「未完成」、

つまり、充満(pienezza)、命、喜び、意味の充満へのあこがれを表しています。


イエス・キリストは、充満です。

私たちはみな、未完成で、道の上、歩みの中にいます。

そして、私たちはこの意識をもたなければなりません。


***

このため、私は数年前、若者たちに向けて

長い書簡を書きました。それは、このように始まります。


「キリストは生きておられます。

この方はわたしたちの希望、この世界で最高峰の若さです。

[キリストが]触れるものすべてが若返り、新たにされ、生命力にあふれ出します。[…]

この方は生きておられ、あなたに生きるものであってほしくてたまらないのです。


この方はあなたのうちにおられ、あなたとともにおられ、あなたを決して見捨てません。

あなたがどれだけ離れていても、復活された方はそこにいて、

やり直すようあなたを呼び、待っておられます。

悲しみ、恨み、恐れ、疑い、挫折により、自分が老いたと感じても、

あなたが力と希望を取り戻せるよう、その方はそこにいてくださいます」。

(使徒的勧告『キリストは生きている』1-2項)


これは、アンデレやヨハネ、シモンやヤコブにも当てはまり、

彼らはイエスの弟子、使徒になりました。


そしてこれは、17歳のある日、呼びかけを聞いた私にも当てはまります。

これは、あなたに、私たち一人ひとりに、

インターネットの時代の少年少女であるあなた方にも当てはまります。


イエスはつねに、始まりと終わり、アルファとオメガであり続けます。

開いていましょう、歩みの中にいましょう、つねに。

閉じるのではなく。


***

あなた方のキャンプは、

そこからインスピレーションを受けた福音宣教のメソッド(方法)のように、

「アルファ(Alpha)」と呼ばれています。


「アルファ」は、誕生、始まり、人生の夜明けを意味します。

キリストは「アルファ」、つまり、始まりであり、

また、「オメガ」、つまり、終わり、完成、充満でもあります。


こうして、キリストとともに、人間というこの小宇宙は、

死と否定の淵から救われ、

神の魅力、命の神の魅力の中に入ることが出来るのです。


イエスと結ばれて、私たち一人ひとりは、

芽生え、育ち、実りを結ぶよう定められている種となります。


けれど、イエスに従わなければなりません!

利己主義に「ノー」と言い、自己中心主義に「ノー」と言い、

自分がそうである以上に見せかけることに「ノー」と言うこと。


あらゆる閉鎖に「ノー」と言うことを知っていること。

自分自身であること。

自分を誇らず、自分を卑下することもせず、

ありのままの自分を認めること、それが真の謙虚さなのです。


そして、私たちの中にある悪、私たちの周りにある悪を前にして

逃げ出さないこと、現実から逃避しないこと、

自分自身の中に閉じこもらず、

それぞれが自分の責任―イエスは「自分の十字架」と言われます―を取り、

愛と喜びをもって、それを背負うこと。


一人で背負うのではありません。違います。それは不可能です。

つねに、イエスと共に。イエスが前で、私たちは後ろに。


***

それは私たちに平和と確信を与えてくれます。

私たちは、私たちを知り、私たち自身以上に、私たちを愛し、

私たち一人ひとりに、固有の充満、

一人ひとりのための唯一の充満を望んでおられる

イエスと共にいるのです。


神は、コピーではなく、オリジナル(原型)を望んでおられます。

Dio non vuole fotocopie, ma solo originali.


誰がこれを好んで言ったか、知っていますか。

一人の若者、福者カルロ・アクティス[1996-2006]です。

彼は、イギリスで生まれ、ミラノで育ったイタリア人、

あなた方と同じように、この時代の子で、

コンピューターに熱中し、

何よりも、イエスと、彼が「天への高速道路」と呼んだ

エウカリスチア(聖体祭儀)を愛しました。


カルロの地上での生涯はひじょうに短いものでしたが、

満ちあふれていました。

それはまるで、天へのレース、助走(ダッシュ)のようでした。


彼は、初聖体の日に、御体と御血の中にイエスと出会ってから、

助走(ダッシュ)を始めました。

そうです、イエスは、概念や道徳的規則ではないのです。

違います。イエスは、一人の人、友、旅の仲間です。


***

イエスが、あなた方の偉大な「友」、あなた方の旅の「仲間」となりますように。

生きておられるイエスが、あなた方の命となりますように。

毎日、そしていつまでも。


カルロ・アクティスの言葉を借りましょう。

お願いです、コピーではなく、あなた方一人ひとり、オリジナルでいてください。

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