教皇フランシスコ 一般謁見(2022年8月24日) 老年についてのカテキズム 18.創造の、産みの苦しみ(陣痛)。 「妊娠(熟成)」の神秘としての、被造物の物語(ストーリー)。 [試訳]

***

私たちは、数日前、イエスの母が天に上げられたことを祝いました。


この神秘は、マリアの運命を形作った恵みの成就を照らし、

また、私たちの運命をも照らします。


運命(行先)は「天」です。


この、天に上げられた聖母のイメージをもって、

私は老年についての一連のカテキズムを終えたいと思います。


西方では、栄光に満ちた光に包まれて、上に向かって昇る聖母を見つめます。

東方では、聖母は、祈っている使徒たちに囲まれて、横たわり、眠り、

復活した主が、腕に、子どものような聖母を抱いているところが描かれます。


***

神学は、この並外れた「被昇天」と、

教義が定義していない「死と」の関係について、つねに考察してきました。


私は、さらに大切なのは、この神秘と、

私たちすべてに命を生み出す道を開く「御子の復活」の神秘との関係

明らかにすることだろうと思います。


マリアが、復活したキリストに再び結ばれるという、神的な行為において、

人間の死という、体の通常の腐敗が超越されるだけではありません。

それだけではありません。

それは、神の命を身体的にまとうことを先取りしているのです。


実際、私たちに関係する復活の運命が、先取りされるのです。

なぜなら、キリスト教の信仰によれば、

「復活した方」は、多くの兄弟姉妹の長子であるからです。


復活した主は、先に行かれた方です。

主は、すべての人より先に復活されました。

それから、私たちが続くのです。


これが私たちの運命(行先)です:復活すること。


***

イエスのニコデモへの言葉に沿って言えば、

それは、第二の誕生と言うことも出来るでしょう(ヨハネ3・3-8参照)。

一回目が地上での誕生だとすれば、二回目は天での誕生です。


使徒パウロが、冒頭に読まれたテキストの中で、

産みの苦しみについて言っているのは(ローマ8・22参照)偶然ではありません。


母の胎から出てきたばかりの私たちが、

つねに私たち、胎内にいたのと同じ人間であるように、

死後、天に、神の空間に生まれても、

私たちは、この地上を歩いていた私たちと同じなのです。


同じようなことが、イエスに起こりました。

「復活した方」は、つねにイエスです。


イエスはご自分の人性、ご自分が生きた経験、

さらにご自分の身体性さえも失うことはありません。

体がなければ、もはやイエスではないでしょう。

つまり、イエスは、ご自分の人性、ご自分の生きた経験と共におられるのです。


弟子たちの経験が、それを語っています。

イエスは、ご自分の復活の40日後に彼らに現れました。

主は、ご自分の犠牲を印した傷を示しました。

しかしその傷は、もはや、痛みをもって苦しんだ不名誉の醜さではなく、

今や、イエスの、最後まで忠実な愛の、消えない証拠となっています。


復活したイエスは、ご自分の体をもって、

三位一体の神の親密さ(交わり)の中に生きておられるのです!

そして、その中で、記憶を失わず、ご自分の物語(ストーリー)を放棄せず、

地上で生きた関係を解消しないのです。


イエスは、ご自分の友に約束しました。

「わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、

戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎えよう。

わたしのいる所に、あなた方もいるようになるためである」(ヨハネ14・3)。


イエスは、私たちすべてのために場所を準備するために行き、

場所を準備した後、戻って来られるのです。


イエスは、すべての人のために、最後に来られるだけでなく、

私たち一人ひとりのために、毎回、来てくださるのです。

私たちをご自分のところに連れて行くために、

私たちを探しに来てくださるのです。


イエスは、ご自分のところに連れて行くために、私を待っておられます。

この意味で、死は、

イエスとの出会いに向かっての一種のステップなのです。



***

復活した方は、神の世界に生きておられます。

そこでは、すべての人のための場所があり、

新しい地が形造られ、

人間の最終的な住まいである、天の都が建設されています。


私たちは、この、自分の死すべき体の変容を想像することは出来ません。

けれど、この体が、私たちの顔が認識できるように保ち、

神の天において、人間であり続けることが出来るようにすることを確信しています。


[この体は]私たちが、崇高な感情(感動)をもって、

神の創造的行為の、無限で幸いな高揚に参加することを可能にし、

私たちは、神の果てしない冒険すべてを、直接、経験することになるのです。


***

イエスは、「神の国」について語るとき、

それを、婚礼の祝宴として、友人たちとの宴会として、

家を完成させる仕事として表現しています。

神の国は、収穫を、種まきよりもさらに豊かにする驚きなのです。


神の国についての福音の言葉を真摯に受け止めることは、

私たちの感性を、神の、活動的で創造的な愛を享受できるようにし、

私たちを、自分が蒔いた命の、途方もない運命(行先)との同調(調和)の中に

置くのです。


愛する同年代のみなさん―私は老人たちに向かって話しています―、

私たちの老年期において、人生を構成しているたくさんの「詳細」の重要性が

より鮮明になります。

抱擁、微笑み、しぐさ、感謝される仕事、思いがけない驚き、

もてなしの喜び、忠実な絆…。


別れを前にして、私たちが最も大切にしている人生の本質が、

決定的に明らかに現れるのです。


そうです、この老年の知恵は、子ども、若者、大人、共同体全体を照らす

私たちの熟成の場です。


私たち「老人」は、人々にとってこれであるべきです。人々のための光。

私たちの人生(命)全体は、花を咲かせ、実を結ぶために

埋められなければならない種のように現れます。


産みの苦しみがないわけでも、痛みがないわけでもありません。

けれど、生れるのです(ヨハネ16・21-23参照)。

復活した体は、

私たちがこの地上で味わったものの、百倍も千倍もの命を受けるでしょう

(マルコ10・28-31参照)。


***

復活した主は、偶然ではなく、

湖のほとりで使徒たちを待っている間に、魚を焼き(ヨハネ21・9参照)、

それを弟子たちに差し出しました。

この、気遣いに満ちた愛の行為は、

岸の向こう側に渡る時、

何が私たちを待ち受けているかを直観させてくれます。


そうです、愛する兄弟姉妹のみなさん、特に、あなた方、高齢のみなさん、

人生の最高のことは、まだ見ていません。

「私たちは年寄りです、これ以上、何を見なければならないのでしょうか」

最高のこと、人生の最高のことは、まだ見ていないのです。


私たちは、主が私たちを呼ばれるとき、私たちすべてを待っている

この命の満ち溢れを待ち望んでいます。


私たちに先立って「楽園」に行かれた、主の母、私たちの母が、

私たちに待望の恐れを取り戻してくださいますように。

待つことが、麻痺したものでも、退屈なものでもなく、

恐れをもったものであるように。

「私の主はいつ来られるのか。私はいつそこに行くのか」。


少しの恐れ。この通過がどういう意味か分からないから。

この扉を通過することは、少し恐ろしいのです。

けれど、そこにはいつも、あなたを前に進ませてくださる主の手があり、

扉を通過すると、そこには祝宴があります。


同年代の、愛する「老人」のみなさん、

注意していましょう、警戒していましょう。

主は私たちを待っておられます。

ただ通過するだけ、そして祝宴があるのです。

0コメント

  • 1000 / 1000