愛するとは、礼拝すること(adorare)、奉仕すること(servire) 教皇フランシスコ 説教
愛するとは、礼拝すること(adorare)、奉仕すること(servire)
教皇フランシスコ 説教
「世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第1会期」閉会ミサ
(年間第30主日:2023年10月29日)マタイ22・34-40
[試訳]
それは確かに、律法学者がイエスを試すために、イエスに示した口実でしかない。
しかし、彼の質問は、時に私たちの心、教会生活に入り込む、重要で、常に現実的なものである。
「律法の中でどの掟がいちばん重要か」(マタイ22・36)。
「伝統」という生きた川の中に身を置く私たちもまた、自問する。
最も重要なことは何か?原動力となる中心は何か?
すべてにインスピレーションを与える原則となるほど、最も大切なことは何か?
イエスの答えは明確である。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
これがいちばん重要な第一の掟である。
第二もこれに似ている。隣人をあなた自身のように愛しなさい」(マタイ22・37-39)。
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兄弟である枢機卿、司教と司祭たち、奉献生活者の兄弟姉妹たち、
私たちが歩んできたこの旅の終わりに、
そこからすべてが始まり、再び始まる「原理と土台」に目を向けることが重要である。
生涯をかけて神を愛し、隣人を自分のように愛すること。
私たちの戦略でもなく、人間的計算でもなく、世の中の流行でもなく、神と隣人を愛すること。
それがすべての核心なのだ。
しかし、このような愛の促しをどのように解釈すればよいだろうか?
私は、二つの動詞、二つの心の動きを提案したい。
「礼拝する(adorare)」と「奉仕する(servire)」。
神を愛することは、礼拝と奉仕によってなされる。
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愛するとは、礼拝すること
最初の動詞、礼拝すること(adorare)。愛することは、礼拝することである。
礼拝は、神の無償の愛、驚くべき愛に対して、私たちが捧げることのできる最初の答えである。
礼拝の驚きは、教会において、特に礼拝の習慣を失った現代において、不可欠なものである。
実際、崇敬とは、神のみが主であり、その愛のやさしさの上に私たちの人生、教会の歩み、歴史の運命があることを、
信仰のうちに認識することを意味する。神こそが生きる意味なのだ。
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偶像崇拝からの解放、自由
主を礼拝することによって、私たちは自由な自分を再発見する。
聖書において、主への愛がしばしばあらゆる偶像崇拝との戦いと結び付けられるのはこのためである。
神を礼拝する者は偶像を拒絶する。神が解放するのに対して、偶像は奴隷にするからだ。
偶像は私たちを欺き、約束したことを決して果たさない。偶像は「人の手で造られたもの」(詩編115・4)だからだ。
聖書は偶像崇拝に対して厳しい。偶像は人間の作品であり、人間によって操られるものだからである。
他方、神は常に「生きておられる方」であり、ここに、そしてさらに向こうにおられる。
「私が思うように造られているのではなく、私が期待することに依存せず、
まさに生きておられるからこそ、私の期待をひっくり返すことが出来る」方である。
「私たちが神について常に正しい考えを持っているわけではないことの証拠に、私たちは時々失望する。
私はこれを期待していたのに、神がこのように振る舞うことを想像していたのに、私は間違っていた。
このようにして、私たちは偶像崇拝の道を歩む。
主が、私たちの造った主の姿に従って行動することを望みながら」
(C.M. Martini, I grandi della Bibbia. Esercizi spirituali con l’Antico Testamento, Firenze 2022, 826-827).
神の業は、驚きと礼拝を求める
そしてこれは、私たちが常に犯しかねないリスクなのだ。
私たちが「神をコントロール」しようとし、神の愛を私たちの枠組みの中に閉じ込めようと考えること。
それに反して、神の業(行動)は常に予測不可能であり、超えていくものである。
ゆえに、この神の業は、驚きと礼拝を求める。驚きはとても重要だ!
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私たちは常に偶像崇拝と戦わなければならない。
世俗的な偶像崇敬:
それは、成功欲、自己主張、金銭欲(悪魔は懐から入り込むことを忘れてはならない)、出世欲など、
しばしば個人的な虚栄心から生じるものである。
しかしまた、霊性を装った偶像崇敬もある:
私の霊性、私の宗教的考え、私の司牧的能力......
主ではなく私たちを中心に置くことがないよう、警戒しよう。
私たち司牧者にとって、この礼拝を中心的なものとなるように。
毎日、聖櫃の前で、善い羊飼いであるイエスとの親密な時間を捧げよう。礼拝すること。
礼拝する教会となるように。
すべての教区、すべての小教区、すべての共同体で、主が礼拝されるように!
そうすることによってのみ、私たちは自分自身にではなく、イエスに向き直ることができるから。
礼拝に満ちた沈黙を通してのみ、神の「み言葉」が私たちの言葉に宿るから。
主のみ前でのみ、私たちは主の霊の火によって清められ、変えられ、新たにされるから。
兄弟姉妹の皆さん、主イエスを礼拝しよう!
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愛するとは、奉仕すること
二つ目の動詞は「奉仕する(仕える)」である。
愛することは、奉仕することである。
偉大な掟において、キリストは神と隣人を結びつけ、両者が決して離れることのないようにしている。
この世の叫びに耳を貸さない宗教的体験、「真の」宗教的体験はない。
隣人のケアに身を置くことのない神への愛はない。そうでなければ、ファリサイ主義の危険がある。
私たちは確かに教会を改革するために多くの素晴らしいアイデアを持っているかもしれない。
しかし、覚えていよう。
神を礼拝し、神の愛をもって兄弟姉妹を愛すること、これこそが偉大で永遠の改革なのだ。
礼拝する教会であり、奉仕する教会であること。
傷ついた人間の足を洗い、傷つきやすい人、弱い人、見捨てられた人の歩みに寄り添い、
やさしさをもって最も貧しい人に会いに行く教会であること。
神はこのように命じておられる、と私たちは第一朗読(出エジプト22・20-26)で聞いた。
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世界に、福音のパン種を運ぶ
兄弟姉妹の皆さん、
私は戦争の残虐行為の犠牲となった人々、移住者の苦しみ、孤独と貧困の中にいる人々の隠れた痛み、
人生の重荷に押しつぶされた人々、もう涙も声もない人々のことを思う。
そして、立派な言葉や説得力のある約束の陰で、搾取が助長されたり、
それを防ぐために何もされなかったりすることが、どれほど多いことか。
弱者を搾取することは重大な罪であり、兄弟愛を腐敗させ、社会を荒廃させる重大な罪である。
イエスの弟子である私たちは、世界に、もうひとつのパン種、福音のパン種を運びたい。
第一に神、そして神が特に愛する人々、貧しい者、弱い者たち。
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すべての人に奉仕する教会
兄弟姉妹の皆さん、これこそ私たちが夢見るよう求められている教会である。
「品行方正」という成績表を要求することなく、
迎え入れ、仕え、愛し、赦す教会。
「いつくしみの港」となる、開かれた扉を持つ教会。
いつくしみ深い人は、助けを必要としている人にとっての港
ヨハネ・クリゾストモは言っている。
「いつくしみ深い人は、助けを必要としている人にとっての港である。
港は、すべての漂流者を迎え入れ、危険から救い出す(解放する)。
彼らが不義を行う者であれ、善良な者であれ、あるいは、そのような者であれ[...]、
港はその入り江の中に彼らを保護する。
それゆえ、あなたも、地上で貧しさのために難破した人を見かけたら、
裁いたり、その人の行いの説明を求めたりしないで、その人を不幸から救い出しなさい」
(『貧しいラザロについての講話』 II, 5)。
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兄弟姉妹の皆さん、シノドス総会が閉会する。
この「聖霊の対話」において、私たちは主のやさしい現存を体験し、兄弟愛の美しさを発見することが出来た。
私たちは互いに耳を傾け、そして何よりも、私たちの歴史と感受性の豊かな多様性の中で、聖霊に耳を傾けた。
私たちは今日、このプロセスの完全な実りを見ていないが、
先見の明があれば、目の前に広がる地平線を見ることができる。
主は私たちを導いてくださり、
私たちが、神を礼拝し、現代の男女に奉仕し、
すべての人に福音の慰めをもたらす喜びを運ぶために出かけて行く、
よりシノドス的で宣教的な教会となるよう助けてくださるだろう。
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兄弟姉妹の皆さん、
シノドスにおいてあなた方がしてくださった、そして引き続きしてくださることすべてに感謝します!
私たちが共に歩んできた道のり、耳を傾けたこと、対話に感謝します。
あなた方に感謝することにおいて、私たちすべてに願います。
私たちが神への礼拝と隣人への奉仕において成長することが出来るように。
礼拝することと、奉仕すること。主が私たちに寄り添ってくださいますように。
そして、喜びとともに前に進みましょう!
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