Sr.ルカの独り言:修道会創立70周年記念が終わり…「さあ、始めよう!」
修道会創立70周年記念の一日が、
「神の民の交わり」の中に、終わりました。
朝10時半から、長崎教区髙見大司教さま司式の記念ミサ。
コロナ・パンデミック下であることを考慮して、簡素な祝賀会。
修道院玄関前で、大司教さまを囲んで記念撮影をするころには
雪が降りだしました。
午後、日本時間で4時から、
四か国にある修道院をインターネットでつなぐロザリオの祈り。
本部修道院の姉妹たちは、
創立者ミエチスラオ神父さまがミサを捧げ続けた聖堂に集まりました。
***
ポーランドでは、ずいぶん前から、
毎日、ロザリオの祈りの一連を日本語で唱えています。
韓国の姉妹も、ベトナムの姉妹も、
日本語で唱えることが出来ます。
さらに、日本の姉妹たちは数年前から、
毎日、ロザリオの一連を、週交代で、
ポーランド語、韓国語、ベトナム語、イタリア語で唱えています。
(今年10月、ロザリオの月には、
ロザリオ一本をそれぞれの国の言葉で交代に唱えました)
この練習の成果(?)もあり、
インターネットを通して、
四か国の姉妹が声を合わせてロザリオを祈る、という経験をしました。
日本から出ることなく、
ずっと障がい者の方たちに奉仕をしてきた日本のシスターたちも、
ポーランド、韓国、ベトナムの姉妹たちの顔を実際に見て、
共にロザリオを祈り、
「一つの家族」の同じ姉妹だと感じ、とても感動していました。
***
「記念行事」は終わりました。
これから「さあ、始めよう!」。
「行事」はあくまでも「しるし」です。
特別なときにいただいた「恵み」に、
普通の日々の生活の中でどう「答えて」いくか、が大切なのでしょう。
イエスさまも、奇跡を見たり経験したりするだけでは
十分ではない、とおっしゃっています。
神さまからの「しるし」を、どう読み、「生き方」に変えていくか。
教皇フランシスコが繰り返すように、
神さまとの「日々の親しい対話―祈り―」の中で
わたしたちは、「神さま視線」で、
自分自身の物語(ストーリー)、人間の物語、世界の物語を読むことを
学んでいくのでしょう。
「わたしがこう思う」…という生き方は、
時に華やかな成功があっても、どこかで行き詰まります。
自分の弱さ、闇にぶつかるとき、
誰かのせい、何かのせいにして、
「どうせ無理…」と、前に進むことが出来なくなります。
***
イコン作者は、「主の降誕」の中で、
神が、この世の「闇」のただ中に降りてきたことを強調する。
「光」である方が、「闇」の中に。
けれど、「光」である方は、
決して「闇」に飲み込まれることはない。
「光は闇の中で輝いている。
闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ1・5)。
「信じる者」とは、
「神さま視線」で、
自分の物語、人間の物語、世界の物語を見ることが出来る人、
「光」がすでに「闇」に打ち勝ったことを信じることが出来る人。
だから、自分の弱さ、闇にぶつかっても、
神は、「悪」さえも、より大きな「善」に変えることが出来ると
信じることが出来る。
神は、わたしの弱さを、より大きな善に変えることが出来ると
信じることが出来る。
使徒パウロは、大胆に宣言している:
「キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで、わたしは自分の弱さを誇ることにします。
[…]わたしは、弱っている時こそ、強いからです」
(二コリント12・9,10)。
キリストを信じ、キリストの内に「神の子」となったわたしたちは、
「わたしが」強くなることを望むのではなく、
「神の」力、勝利が、弱いわたしを通して現わされるよう
「神のまなざし」で、自分を、世界をみつめる「心の目」を
研ぎ澄ましていくのだろう。
***
「マリアは、これらのことをことごとく心に留め、思い巡らしていた」
(ルカ2・19)。
「母はこれらのことをことごとく心に留めていた」(ルカ2・51)。
「母」の「胎」-存在の中心―には、
「自分」ではなく、「他者」がいる。
「母」は、他者を「受け入れる」。
母は、他者の幸せを中心に置く。
マリアは、「いのち」である方を中心に置いて、
内側から存在全体を変えられていく。
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「信仰のまなざし」は、この世のまなざしとは異なる。
この世のまなざしは、この世の光で外側を眺める。
「信仰のまなざし」は、「信仰の光」で内側をみつめる。
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Tomas Spidlik枢機卿は、主日の福音の黙想の中で、
洗礼者ヨハネが、
「光について証しをするために来た」(ヨハ1・7-8参照)とは
どういうことか、と問う。(待降節第三主日[B年]、福音の黙想)
誰も「光」を証しすることは出来ない。
なぜなら、すべてのものは「光」で照らされて初めて見えるのだから。
ヨハネは、「光に照らされた者」としての証しをする。
つまり「光」を受け入れ、「光」によって内側から照らされた者の
「生き方の証し」をする。
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Spidlik枢機卿は、
聖書の歴史(物語:ストーリー)と、この世の歴史書はどう違うか、
聖書の歴史と、世俗の歴史の違いは何か、と問いかけ、書いている。
「答えは簡単である。
聖書の作者たちは、彼らの時代の歴史記述を書く人と同じように書いた。
しかし、彼らが集めたすべての情報を、信仰の光で見た。
ゆえに、彼らの歴史は、世俗の歴史よりも
比類なくさらに深い意味をもっている。
わたしたち一人ひとりも、
自分の歴史(物語:ストーリー)を持っていて、
自分の人生について語ることが出来る。
しかし、どのように自分の過去を見るのか。
単に外面だけを見ることも出来る:
わたしはここにいた、わたしはこれをした…。
心理学者たちは、わたしたちの行いの、
より内奥の理由(動機)を見つけることを助けるだろう。
しかし、人間は、信仰の光に照らされてのみ
自分自身を理解するという真実は残る。
そうでなければ、自分自身も、わたしたちを取り囲む世界も
理解することは出来ないだろう」。
Spidlik枢機卿は、パスカルの言葉から考察する。
「パスカルは、科学者たちは、信仰の光を認めようとしないと指摘する。
彼らは、世界や、存在するすべてのものを、
自然の理屈だけで説明しようとする。
このようにして彼らは、神秘の知識、ゆえにいのちの理解を見逃す。
信仰は、彼らにとって、科学的ではない態度に見える。
なぜなら、理論をもって正当化(証明)出来ないから。
このような反論にどう答えるのか。
用語『信仰(fede)』の理解の仕方に混乱がある。
それは、信仰の対象、その内容を意味することもある:
たとえばカテキズムは言う、
キリストは人であり神である、神は三つのペルソナの一致である、など。
この断言が生活にとって何を意味するかを理解するためには、
わたしたちは信仰のもう一つの側面、
つまり『内的光(la luce interiore)』を必要とする。
『内的光』の存在は証明されるのではなく、
それ自身が自らを正当化する。
La sua esistenza non si prova, essa si giustifica da sola.
自然の光は、
わたしたちが自分の目で周りの対象物を見るという事実をもって証明される。
信仰の光は、信じる者たちが、彼らの生活(生き方)を通して信仰の対象の意味を理解するという事実によって証明される。この経験をする人は驚嘆する」。
La luce della fede si prova con il fatto che gli uomini credenti comprendono il senso dell’oggetto di fede per la loro vita. L’uomo che fa questa esperienza ne rimane stupito.
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「外側の光」「自然の光」だけでは、
「キリストが人であり神である」ことは理解できない。
信じる者は、「キリストが人であり神である」ことを、
自分の生活を通して、生き方を通して理解する。
信じる者の生き方が、「光」である方を証ししている。
洗礼者ヨハネの証しのように。
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教皇フランシスコは繰り返す。
キリスト教の中心にあるのは、
教義でも、宗教的規則や儀式でもなく、
「一人の方」との生き生きとした出会いである、と。
キリストに出会った人の生き方が、
世に対して、キリストを証しする。
福音宣教(福音化:evangelization)とは、
「善い知らせ(福音)」を生活の中に、いのちの中に受け入れた人、
「善い知らせ」によって変えられた人の
生き方の証しなのだろう。
「善い知らせ」によって変えられた人の「喜び」がなければ、
教義の弁明は、単なる哲学、道徳になる。
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修道会創立70周年記念の恵みのときを、
わたしたちは、祈り、行事、出会いによって体験した。
これから、体験した「恵みのとき」を
日々の普通の生活の中で「証し」するときが始まる。
特別な恵みのときがある、
「わたしたちと共におられる主」の現存を
深く体験するときがある。
それは、わたしたちが普通の日々の中でも
主が「ともにおられる」ことに信頼して
「信じる者」として「善い・喜びの知らせ」を証しすることが出来るよう
与えられたときなのだろう。
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主の母となったマリアには、
奇跡は起こらなかった。
父である神は、ご自分の御子をマリアに託しながら、
日々の「信仰の旅路」を信頼して歩むことを求めた。
普通の日々の中で、
光のときも闇のときも、
主が「ともにおられる」ことを信じて歩むよう求めた。
主が、アブラハムに求めたように。
そして、アブラハムにとってのように、
マリアにとって、
「闇のとき」は何と多かっただろう!
主の母マリアの偉大さは、
「喜びなさい…主はあなたと共におられる」という
天の使いを通して告げられた神のみことばを、
「神の民」イスラエルの娘として、
アブラハムのように、信じ続けたことだろう。
アブラハムのように、
神は、悪さえも、より大きな善に変えることが出来ることを、
神は、つねにご自分の民のより大きな善を望んでいることを、
信じ続けたことだろう。
***
修道会創立70周年記念の翌日の独り言でした。
Sr.ルカ 岡立子
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