Sr.ルカ:待降節の典礼からの黙想(「教会の祈り」読書課、第二朗読から)

今日は、主の降誕八日前、12月17日の「読書課」からの黙想です。

(『毎日の読書』、第一巻 待降節・降誕節、カトリック中央協議会参照)


待降節・降誕節のために準備された典礼は、

わたしたちが、神の御子の受肉の神秘を観想する助けとなる

教会の伝統の声を「宣言」しています。


*典礼――ミサ、教会の祈り――の中で読まれる聖書のみ言葉は

個人的に読むみ言葉とは異なり、「宣言」されるもので、

それ自身「秘跡」である、と教会は教えます。

秘跡、つまり、典礼の中で宣言するみ言葉そのものが、

「救いをもたらす力」を内包しているのです。


***

この季節、典礼に伴われて、

すべては御父のうちに生まれ、御父から出て、御父に帰っていく

救いの営みのダイナミズムをみつめ、

その中に、すべての人、わたしたちすべてが巻き込まれていること、

御父のいのちの「外(そと)」には何も、誰も存在しないことを、

より深く悟ることが出来ますように!


***

大聖レオ


12月17日の「読書課」の第二朗読では

「大聖レオ」と呼ばれる、聖レオ一世教皇の手紙が読まれます。


彼は手紙の中で、キリストにおける

わたしたちの和解の神秘について書いています。


手紙の一部に耳を傾けましょう。[中央協議会訳]


***

新しい人であるキリストが

「罪深い肉と同じ姿」(ロマ8・3)となって、

わたしたちの古い状態を受けとられなかったらとしたら、


また御父と本質を同じくする方が、

母とも本質を同じくするものとなってくださらなかったとしたら、


また、人間の中でただ一人罪を知らない方が

わたしたち人間の本性をご自分に結合しようとされなかったなら、


人類は捕らわれの身として、

ことごとく悪魔の軛(くびき)のもとにとどまったことでしょう。


もしキリストと悪魔の決戦が

わたしたちの人間性以外の場で行われたとしたら、

わたしたち人間はキリストの勝利の恩恵に浴することは

できなかったことでしょう。


神の御子が人間性に参加[参与]したこの驚嘆すべき出来事から、

再生の神秘の光がわたしたちに示されました。

[わたしたちのために、再生の秘跡が輝きを放ちました]


それは、キリストの托身と誕生をもたらした聖霊そのものにより、

わたしたちも霊的に再び生まれるためです。


だからこそ福音記者ヨハネは信じる者について、

「血によってではなく、肉の欲によってではなく、

人の欲によってでもなく、

神によって生まれたのである」(ヨハ1・13)と

言っているのです。


***

結びの祈願


「読書課」の結びの祈願は、次のように響きます。

[イタリア語より試訳]


造り主(創造主)であり、あがない主である神よ、


あなたは、

終生処女(おとめ)である「母」の胎の中で人となった、

あなたの「みことば」において、

世界を新しくしてくださいました。


多くの兄弟たちの長子(ちょうし)である、

あなたの唯一の御子[独り子]が、

いのちの交わり(コムニオ)の中に、

わたしたちをご自分に結び付けてくださいますように。


***

絵は、今朝、この「祈願」を黙想しながら描いたイメージです。

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