Sr.ルカの独り言:キリスト者の喜び:「こんな時代に、なぜ喜べるのか?」
教皇フランシスコは、待降節第三主日(「喜びの主日」)の正午、
「お告げの祈り」の前の短い話の中で
キリスト者の喜びについて語っている。[試訳はHPに掲載]
「こんな時代に、なぜ喜べるのか?」
教皇フランシスコの答え、
教会の答えは、
「こんな時代だからこそ、
きのうも、今日も、永遠に変わらない方、
いつもわたしたちと共にいる、と約束してくださった
主イエス・キリストを信じる
キリスト者の喜びが輝き出る」
…というものだろう。
***
闇が深くなればなるほど、光は輝く
真っ暗闇の中で、
一本のろうそくの火をつけた経験はあるだろうか。
いつもはたよりない光なのに、
暗闇のただ中で、
周りを明るく照らし出し、あたたかさを伝える、
ろうそくの光。
***
「光」は、わたしたちではない。
わたしたちは「光」を受け取り、宿し、
「こんな時代」のただ中に運ぶよう、遣わされている。
真の光を受け入れ、宿し、運ぶとき
ナザレのマリアのように、ヨセフのように、
洗礼者ヨハネのように、
聖人たちのように、
「きのうも、今日も、永遠に
わたしたちと共におられる神」、
わたしたちの救いのために天から降り、
おとめマリアの胎の中で人となった神の「光」が、
わたしたちの中から輝き出る。
***
教皇フランシスコは、
2020年12月16日、祈りについての一般謁見の中で、
神との親しい対話のために、
世の騒音を離れ
イエスのように「人里離れたところに」退いて祈ることが大切だが、
それは、世からの逃避ではなく、
神の声に耳を傾け、
今、何をすべきかを識別し、それを行うため、
神が共におられることを、世に対して証しするためだ、と話した。
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*12月16日の一般謁見要約は「バチカン放送」日本語サイト参照)
*英語原文は、バチカンHP参照
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わたしたちの本部修道院では、
高齢の姉妹たちも
平日は朝五時に起き、それから二時間以上
聖堂の中に「留まる」。
一日の始まりに主と親しく対話するための
30分間の沈黙の祈りも含めて。
また、一日の中で、教会の教え、修道会の伝統に従って
「時課の祈り」、時々の賛美のために、聖堂に集まる。
「寝る前の祈り」で一日を閉じるまで。
それは、この世の目には、
何の「利益」ももたらさない
「無駄な時間」のように見えるだろう。
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聖マキシミリアノ・コルベ神父は
祈りの精神をもたない人は、
一生懸命活動しているように見えても、
猛スピードで走行し
岩にぶつかって砕けてしまう船のようだ、と
言っている。
とても分かりやすいイメージで、
主の前に留まることを忘れているとき、
思い起こす。
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わたしはしばしば、
イエスが十二使徒を選ぶ前に
「祈るために山に行き、夜通し神に祈[った]」(ルカ6・12)
という場面を想像する。
イエスは父と何を語り合ったのだろう。
福音書は続ける、
「夜が明けると、イエスは弟子たちを呼び寄せ、
その中から十二人を選び、
彼らを使徒と名づけられた」(13節)。
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なぜ「あの」十二人なのか、
もう少しふさわしい人はいなかったのか、と思ったことは
ないだろうか?
漁師の子、徴税人、熱血漢、
果ては、イエスの心とはまったく合わないだろう
イスカリオテのユダまで…。
父である神との親しい対話の後で、
自らの自由と責任をもって、
イエスは「あの」十二人を選んだ。
***
イエスの生涯は
「父よ[…]、わたしの思いではなく、
[あなたの]み旨が行われますように」(ルカ22・42参照)という
祈りによって刻印されている。
それは、いやいやながら従うのでも、
強制されて、他の選択がないのでもない。
自分の方から、いただいた知恵と力を尽くした後、
わたしたちには分からない
わたしたちの知恵を超える神の救いの計画に委ねる。
わたしたちの弱さの中に
神の強さが現れるために。
イエスの受難・死のただ中に
真のいのちの道が通ったように。
***
父である神は、わたしたち人間に
何も強制しない、いや強制できない。
わたしたちが、最大の賜物である「自由」を
「他者のために」使うことを学ぶよう
――それが真の自由である――
忍耐をもって導き、見守る。
***
イエスの「はい」に、
マリアの「はい」、ヨセフの「はい」、
洗礼者ヨハネの「はい」、
聖人たちの「はい」が続く。
それは、真の光を運ぶ者たちの
喜びに満ちた「はい」ではないだろうか。
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