使徒的書簡「パトリス・コルデ」[試訳](4)
2.やさしさの父
ヨセフは、イエスが、日々「知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人に愛された」(ルカ2・52)のを見ます。主がイスラエルにしたように、ヨセフはイエスに、歩むことを教え、彼を腕に抱えました。イエスに対して、赤子を抱え上げて頬ずりする者のようであり、身を屈めて彼に食べさました(ホセ11・3-4参照)。
イエスは、神のやさしさをヨセフの中に見ました:「父が子を憐れむように、主は、ご自分を畏れる者を憐れまれる」(詩103・13)。
ヨセフは、詩編の祈りの中で、イスラエルの神が、すべての人に善い方であり、「その憐みはすべてのものの上にある」(詩145・9)、やさしさの神[10]である という響きを会堂で聞いたことがあるでしょう。
救いの歴史は、わたしたちの弱さを通して、「望みのないときに望みを抱く」(ロマ4・18)ことにおいて成し遂げられます。ひじょうにしばしば、わたしたちは、神がわたしたちの良い部分、勝利の部分だけを頼りにしていると考えます。しかし実際は、神の計画のほとんどの部分は、わたしたちの弱さを通して、弱さにも関わらず実現されます。それは聖パウロに言わせます:「思い上がらないように、わたしの体には一つの刺が与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを打ちのめすために送られたサタンの回し者なのです。この回し者について、立ち去らせてくださるように、三度わたしは主にお願いしました。しかし、主は、『お前はわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ』とお答えになりました」(二コリ12・7-9)。
もしこれが救いの営みの展望(視点)であるなら、わたしたちは深いやさしさをもって自分の弱さを受け入れることを学ばなければなりません 。[11]
[10]申4・31;詩69・17;78・38;86・5;111・4;116・5;エレ31・20参照。
[11]使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)88、288項参照。
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