使徒的書簡「パトリス・コルデ」[試訳](9)
わたしたちのただ中への、イエスの到来は、父である神の賜物です。わたしたち一人ひとりが、たとえ完全に理解していなくても、自分の物語(ストーリー)の「肉」と和解出来るように。
神は、わたしたちの聖人に、「ダビデの子ヨセフよ、恐れるな」(マタ1・20)と言いました。神は、わたしたちにも繰り返しているようです:「恐れるな!」。怒りと失望を放棄し(わきに置き)、世俗的なあきらめなしに、しかし希望に満ちた剛毅(強さ)をもって、わたしたちが選んだわけではなくても、存在しているものに空間を差し出す必要があります。このようにして人生を受け入れることは、わたしたちを隠された意味へと導きます。わたしたち一人ひとりの人生は、福音がわたしたちに示していることに従って生きる勇気を見出すなら、奇跡的に再出発することが可能です。もはやすべてが間違った方向に向かってしまったように見えても、幾つかのことがすでに取り返しのつかないことになってしまったとしても、それは問題ではありません。神は、岩から花を芽生えさせることが出来ます。もしわたしたちの心が、何かを咎めたとしても、神は「わたしたちの心よりも偉大であり、すべてをご存知です」(一ヨハ3・20)。
再び、存在するものを何も捨て去らないという、キリスト教的リアリズム(現実主義)が戻ります。現実は、その神秘的な不可解さと複雑さの中に、存在の意味をその光と影とともに運ぶものです。これが使徒パウロに言わせます:「神を愛する人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことをわたしたちは知っています[わたしたちは、すべてのものが神を愛する者のために善に寄与することを知っています]」(ロマ8・28)――これに聖アウグスチヌスは加えます:「悪と呼ばれているものも」(«etiam illud quod malum dicitur»)[18] ――。この総合的展望において、信仰は、あらゆる嬉しい出来事や悲しい出来事に意味を与えます。
ですから、信じることは、安易な慰めをもたらす解決策を見出すことだと考えるなど、とんでもありません。キリストがわたしたちに教えた信仰はそうではなく、聖ヨセフの中に見る信仰です。それは近道を求めず、起こっていることに「目を見開いて」向き合います。それに対して自分が先ず責任を取りながら。
ヨセフの受容は、わたしたちに、誰も除外せず、ありのままに他の人を受け入れる(迎え入れる)よう招きます。弱い人たちを優先しながら。なぜなら、神は弱いものを選び(一コリ1・27参照)、「孤児の父、やもめの保護者」(詩68・6)であり、異国の人を愛するよう命じるからです 。[19]わたしは想像します。イエスは、ヨセフの態度から、放蕩息子と、いつくしみ深い父のたとえ話(ルカ15・11-32参照)のヒントを得たと。
[18]Enchiridion de fide, spe et caritate, 3.11: PL 40, 236.
[19]Cfr 申命記10・19;出22・20-22;ルカ10・29-37。
0コメント