使徒的書簡「パトリス・コルデ」[試訳](12)
ヨセフが主人公であるすべての出来事の最後に、福音書は、ヨセフが起き上がり、幼子とその母を連れて、神が彼に命じたことを行ったと記しています(マタ1・24;2・14,21参照)。実際、イエスとその母マリアは、わたしたちの信仰の中で最も尊い宝です 。[20]
救いの計画の中で、御子をその母、「信仰の旅路を進み、十字架に至るまで子との一致を忠実に保[った]」[21] 方から、引き離すことは出来ません。
わたしたちはつねに自問しなければなりません。神秘的な方法で、わたしたちの責任、わたしたちの世話、わたしたちの保護に託された、イエスとマリアを全力で守っているか、と。全能の方の御子は、ひじょうに弱い状態をまとって、世に来ました。自らを、擁護され、守られ、世話され、育てられるために、ヨセフの助けが必要な者としました。神は、マリアがそうしたように、ヨセフに信頼します。マリアはヨセフの中に、彼女の命を救うことを望むだけでなく、つねに彼女と幼子に必要なものを備える人を見出します。この意味で、聖ヨセフは、まさに教会の保護者です。なぜなら、教会は、キリストの「からだ」の歴史における延長であり、同時に、教会の母性の中に、マリアの母性がほのめかされているからです 。[22]ヨセフは、教会を守り続けることによって、幼子とその母を守り続けます。わたしたちもまた、教会を愛することによって、幼子とその母を愛し続けます。
この幼子は、「これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである」(マタ25・40)と言う方です。このように、一人ひとりの困っている人、貧しい人、苦しんでいる人、死にかけている人、見知らぬ人、囚人、病人は、ヨセフが守り続けている「幼子」なのです。これが、聖ヨセフが、困窮している人、助けを必要としている人、追放された人、苦悩している人、貧しい人、死にかけている人の保護者として嘆願されている理由です。これが、教会が何よりも最も小さい人々を愛さずにはいられない理由です。イエスが彼らを優先し、ご自分と同一視したからです。わたしたちはヨセフから、同じ気遣いと責任を学ばなければなりません:幼子とその母を愛すること;秘跡と愛のわざを愛すること;教会と貧しい人を愛すること。これらの現実の一つ一つは、つねに幼子とその母なのです。
[20]Cfr S. Rituum Congreg., Quemadmodum Deus (8 dicembre 1870): ASS 6 (1870-71), 193; Pii IX, Inclytum Patriarcham (7 luglio 1871): l.c., 324-327.
[21]Conc. Ecum. Vat. II, Cost. dogm. Lumen gentium, 『教会憲章』58.
[22]Cfr Catechismo della Chiesa Cattolica, 『カトリック教会のカテキズム』963-970.
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