使徒的書簡「パトリス・コルデ」[試訳](15)

 父親であるということは、子どもを、人生の経験、現実に導き入れるということです。子どもを拘束するのでも、閉じ込めるのでも、所有するのでもなく、彼が選択できるよう、自由になれるよう、出発できるようにすることです。そのためか、伝統はヨセフに、父という称号のすぐそばに、「最も純潔(貞潔)な」という称号を与えます。それは単なる感情的な表示ではなく、所有の反対を表す態度の要約です。純潔さ(貞潔さ)は、人生のあらゆる面における、所有からの自由です。愛が純潔であって初めて、それは真の愛となるのです。所有を望む愛は、最終的にはつねに危険で、拘束し、窒息させ、不幸にします。神ご自身、人間を純潔な愛で愛しました。たとえ過ちを犯し、ご自分に逆らうことがあっても、人間を自由のままにしてくださいました。愛の論理は、つねに自由の論理であり、ヨセフは並外れて自由な方法で愛することを知っていました。彼は決して自分を中心に置きませんでした。彼は自分をわきに置くこと、自分の人生の中心に、マリアとイエスを置くことを知っていました。


 ヨセフの幸せは、自己犠牲の論理ではなく、自己贈与[自らを賜物として差し出すこと]の論理にあります。ヨセフの中に不満(フラストレーション)を感じることはありません。ただ信頼だけがあります。彼の継続する沈黙は、泣き言を観想するのではなく、つねに信頼の具体的なしぐさです。世界は父親たちを必要としています。世界は、主人、つまり自分の空虚さを埋めるために、他者が所有しているものを利用しようとする人を拒否します。世界は、権威を権威主義と混同し、奉仕を卑屈さと、対決を抑圧と、愛のわざを過保護主義と、力を破壊と混同する人々を拒否します。すべての真の召命は、単なる犠牲ではなく、その成熟である自己贈与から生まれます。司祭職や奉献生活においても、この種の成熟さが求められています。ある召命が―それが結婚の召命であっても、司祭や修道者の召命であっても―、単に犠牲の論理にだけに留まって、自己贈与の成熟に達しないところでは、愛の美しさ、喜びのしるしとなる代わりに、不幸、悲しみ、不満を表現する危険があります。

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