教皇フランシスコ「お告げの祈り」での話(2021年1月3日)

教皇フランシスコは、1月3日の「お告げの祈り」のときに、

降誕祭後第二主日の福音、ヨハネ1・1-18について話しました。

(日本では、降誕祭後、第二主日に主の公現の祭日が祝われるので、

福音箇所は異なります。イタリアでは主の公現祭は1月6日です)。


[以下試訳](聖書引用は聖書協会共同訳から)


***

愛する兄弟姉妹たち、こんにちは!

降誕祭後の第二主日に、神のみ言葉は、

イエスの生涯のエピソードではなく、

誕生の前のことをわたしたちに語っています。


イエスがわたしたちの間に来る前のことについて、

何かを明らかにするために、

わたしたちを過去に遡らせます。


特にヨハネの福音の序の中で。

それはこのように始まります:

「初めに言(ことば)があった」(ヨハ1・1)。


初めに:それは聖書の最初の言葉です、

同じ言葉で創世記の物語が始まります:

「初めに神は天と地を創造された」(創1・1)。


今日、福音は、

わたしたちが、降誕において、幼子として観想した方が、

その前に存在していたことを語っています。

ものごとの始まりの前、宇宙の前、すべてのものの前に。

彼は、空間と時間より先に存在します。

命が現れる前に、

「言(ことば)の内に成ったものは、命であった」(1・4)のです。


***

聖ヨハネはイエスを

「Verbo」、つまり「み言葉(Parola)」と呼びます。

わたしたちに何を言おうとしてるのでしょうか?


言葉は「伝達する(対話する、コミュニケーションをする)」ためにあります。一人では話しません、誰かに話します。

いつも誰かに対して話します。


わたしたちは、道で一人で話している人を見たら言うでしょう:

「この人に何が起きたんだろう…」。


わたしたちはいつも誰かに向かって話します。


さて、イエスが「初めから」「み言葉」だったということは、

神が初めからわたしたちと対話することを望んでいた、

わたしたちと話すことを望んでいた、という意味です。


御父の独り子(14節参照)は、わたしたちに、

神の子らであることの美しさ(すばらしさ)を語りたいのです。

そしてわたしたちを、悪の闇から引き離したいのです。

彼は「いのち」(4節)であり、

わたしたちのいのち(生活、人生)を知っていて、

永遠からわたしたちを愛していると言いたいのです。


イエスは、わたしたち皆を愛しています。

これが今日のすばらしいメッセージです:

イエスは「み言葉」、神の永遠の「み言葉」であり、

永遠からわたしたちのことを思い、

わたしたちと対話することを望んでいます。


***

そして、わたしたちと対話をするために、

言葉以上のことをします。


実際、今日の福音の中心で、わたしたちは聞きます:

「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った」(14節)。


となった:なぜヨハネは「肉」という表現を使っているのでしょうか。

より優雅に、「人(人間)となった」とは言えなかったのでしょうか。


いいえ、ヨハネは「肉」という言葉を使いました。

なぜなら「肉」という言葉は、

わたしたちの人間的状態―弱さや脆さすべてのうちに―を

現しているからです。


それはわたしたちに、

神が、わたしたちの脆さ(虚弱さ)に近くから触れることが出来るように、

自ら脆さとなった、と言っているのです。


ですから、主が肉となった(ご自分を肉とした)時から、

わたしたちの人生(生活)の中には、

主にとって異質なものは何もなくなりました。

主が軽蔑するものは何もありません、

わたしたちはすべてのものを主と共有することができます。すべてを。


愛する兄弟たち、愛する姉妹たち、

神は、わたしたちに、わたしに、

まさにそこ、わたしたちの脆さにおいて、

わたしたちを愛していると言うために、肉となりました。


まさにそこ、

わたしたちが、わたしが、

最も恥ずかしいと感じているところにおいて、

わたしたちを愛している、と。


それは大胆なことです。神の決断は大胆です。

神は、まさにそこ、

わたしたちがしばしば恥じているところで肉となりました。

神は、わたしたちの恥の中に入りました、

ご自分をわたしたちの兄弟とするために、

人生の道を分かち合う(共有)するために。



***

[神は]肉となり、引き返しません。


わたしたちの人性(人間性)を、

着たり脱いだりする服のようにまとったのではありません。


違います、神はわたしたちの肉から、もはや離れません。

そして、そこから決して離れないでしょう。


今も、そして永遠に、

主は人間の肉から成るご自分の体とともに、天にいます。

主は、永遠に、わたしたちの人間性と結びついています、

それと「結婚した(結合した)(sposata)」と言えるでしょう。


わたしは、主が御父に、わたしたちのために祈るとき、

話すだけではなく、御父に肉の傷を、

わたしたちのために苦しんだ傷を見せると考えるのが好きです。


それがイエスです。


イエスは、ご自分の肉をもって、執り成しをする方です。

イエスは苦しみのしるしをも負うことを望みました。

イエスは、ご自分の肉をもって、御父の前にいます。


実際福音は、わたしたちの間に宿った(住んだ)と言います。

わたしたちを訪問して、去って行ったのではありません。

わたしたちと共に住むために、わたしたちと共にいるために来たのです。


それなら主は、わたしたちから何を望んでいるのでしょうか。

深い親密さです。


主は、わたしたちが、ご自分と共に、

喜びと苦悩、望みと恐れ、希望と悲しみ、

人々や状況を分かち合うことを望んでいます。

信頼をもって、そのようにしましょう。

わたしたちの心を主に向けて開き、主にすべてを語りましょう。


沈黙のうちに、プレゼピオ(馬小屋)の前に留まりましょう。

ご自分を肉とし、近い者とした神のやさしさを味わうために。


そして恐れることなく、主をわたしたちのところに招きましょう、

わたしたちの家、わたしたちの家庭の中に。


そしてまた、主を、わたしたちの脆さ(弱さ)の中に招きましょう。

わたしたち一人ひとり、自分の弱さを知っています。

主がわたしたちの傷を見るよう、主を招きましょう。

主は来られ、人生(生活)は変わるでしょう。


***

「み言葉」は、神の聖なる母の中で肉となりました。

聖母がわたしたちを助けてくださいますように。

わたしたちと共に住むために扉を叩いているイエスを

わたしたちが受け入れることが出来るように。

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