Sr.ルカの独り言:2021年1月6日
教皇フランシスコが、待降節・降誕節を通して発信し続けた
説教、講話、メッセージ…
教皇フランシスコの言葉は
現実的、具体的でありながら、
深く観想的、霊的でもあります。
神は「見える方、具体的な方」となってくださいました。
ですから、現実性と霊性のバランスは
キリスト教の本質であると
教皇はわたしたちに教えてくれます。
***
教皇フランシスコは
「プレゼピオ」の前に立ち止まって
「観想」しましょう、と
呼びかけます。
(プレゼピオ:降誕のシーンを再現したもの。日本では「馬小屋」と呼んでいる)
「プレゼピオ」の中に現れる
神の「現実性」、神の「やり方」は、
ひじょうに素朴、シンプル、貧しい…
神は、やさしさ、弱さ、脆さを恥としません、と
教皇は言います。
わたしたちは自分の弱さ、脆さを隠そうとする。
恥ずかしいから。
でも神は、まさに、わたしたちの人間性、
わたしたちの肉の「弱さ、脆さ」の中に来てくださったのです。
でも神は、まさに、わたしたちの人間性、
わたしたちの肉の「弱さ、脆さ」の中に来てくださったのです。
エルサレムの宮殿の中に探しても見つからない、
主は、もっとも「低いところ」、
もっとも見捨てられた、誰も気にも留めない場所に来る、
わたしの中の、わたしたちの中の
弱さ、脆さの中に来てくださる。
だから、まさに、そこに、
もっとも貧しいところ、
わたしたちが「恥」と感じる、弱さ、脆さの中に
主を探しなさい、と。
***
神は、「プレゼピオ」の「貧しさ」の中で
わたしたちを待っています。
素朴な、貧しい「しるし」の中に
救い主を見出すことが出来た羊飼いたち。
人間の目からは、とても「救い主」のイメージではない
「飼い葉おけに寝かされた幼子」の中に
神を見ることが出来た、母マリア。
「心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る」(マタイ5・8)。
新しい典礼暦が待降節・降誕節で始まることは
何と深い神秘でしょう。
2021年も、
わたしたちの幸せを望む「サプライズの神」を
わたしたちの考えでは「想定外」のところに
見出すことができますように!
復活の主の霊、聖霊によって
心を清くしていただいたわたしたち。
でも、清く「保つ」ことはもっと大変、
だから日々、「戦う」ことが必要だ、と
教会の経験は教えています。
小さな悪への傾き、誘惑が
わたしの存在の中心、心の中に入り込まないよう
神の助けを願いながら、警戒し、戦うこと。
決して自分の力に頼らないこと。
(悪魔はわたしたちよりもずっと狡猾です)
この「戦い」の強力な武器として
わたしたちの信仰の先輩たちは、
短い単純な祈りを繰り返し唱えていました。
「主イエス・キリスト、罪人のわたしをあわれんでください!」
「イエス、マリア、ヨセフ!」
「マリアさま、助けてください!」
「ヨセフさま、守ってください!」……
T. Spidlik枢機卿は、
「絶えず祈りなさい」という使徒パウロの勧めは可能だろうか、と問いかけ、
「わたしのお母さんがそうでした」と言っています。
Spidlik枢機卿のお母さんは、
誰かが悪い言葉を口にしていたら
その人のために「アベ・マリア…」と祈る。
誰かが自分に嫌な思いをさせたなら、
その人のために「アベ・マリア…」と祈る。
ものごとがうまくいかなかったら、
それを捧げて「アベ・マリア…」と祈る。
誰かが良いことをしていたら、
感謝して「アベ・マリア…」と祈る。
…そうやって、一日中、「絶えず祈っていた」と。
わたしたちの修道会では、
姉妹の間の挨拶のかわりに「マリア!」と言います。
霊的父である聖マキシミリアノ・コルベ神父が
「マリア」の名をわたしたちの呼吸としましょう、と
勧めているからです。
「マリア!」と言ったすぐ後で、人の悪口を言うことは出来ません。
「マリア!」と言いながら、ぶつぶつつぶやくことは出来ません。
2021年、みなさん一人ひとりを、
マリアの母のご保護に委ねて、お祈りしています!
わたしのため、
また今年もボランティアで奉仕してくださるスタッフたちのためにも
お祈りください!
0コメント