神の言葉の黙想の助けに(イエズス会Albert Vanhoye枢機卿)
年間第二火曜日:ヘブ6・10-20、マコ2・23-28
*現代の偉大な聖書学者の一人、
イエズス会のAlbert Vanhoye枢機卿著
『みことばの日々の糧』より試訳
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第一朗読はどちらかというと複雑に見えるが、
土台となる概念はシンプルで、ひじょうに重要である:
希望を持ち続ける(保つ)こと(conservare la speranza)。
ヘブライ人への手紙は明言している:
「あなた方一人ひとりが、同じ熱心さを示して、
最後まで希望を持ち続けてくれるよう願っています」
希望は、熱意、ダイナミズム(活力)を与える。
希望がなければ20歳であっても年老いてしまい、
さらに悪いことに、
パウロがローマの信徒への手紙の中で
異教徒について述べていることが起こり得る。
彼らは希望をもたず、人生の目的をもっていないので、
あらゆる種類の罪に汚れるに任せた(ロマ1・18-32参照)。
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ヘブライ人への手紙は、
神が、私たちの希望を保証するために、
人間の習慣に順応し、誓いを立てたと述べている。
神はアブラハムに誓った。私たちのために誓った。
そして私たちに、完全な大祭司キリストを与えてくださった。
キリストの栄光化(復活)は、わたしたちの栄光化でもある。
キリストは私たちを代表しているからである。
ゆえに私たちの希望は
「私たちの人生のための安全で確かな錨(いかり)」のようであり、
それは「垂れ幕の内側にまで[つまり天にまで]入っていく。
イエスは、私たちのために先駆者としてそこに入って行った」。
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希望の、これらの偉大な理由の他に、
イエスはご自分の地上での生活において、
その他のそんなに明白ではないが、意味深い[希望の]理由を
わたしたちに差し出している。
例えば、今日の福音の中で私たちは、
安息日の掟を破ったと非難された弟子たちを擁護することにおける
イエスの繊細さ(delicatezza)を見る。
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福音のその他の箇所でも、イエスはこの繊細さを示している。
弟子たちが派遣から疲れて帰って来たとき、
イエスは彼らを気遣って言う、
「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」
(マコ6・31と共通箇所)。
イエスは弟子たちを「友(amici)」と呼ぶ(ヨハ15・15参照)。
ご自分に従う群衆たちを深く憐れむ(マコ6・34と共通箇所参照)。
隠れて自分の小さな献金を神殿の献金箱に入れた
貧しいやもめを賞賛した(ルカ21・1-4と共通箇所参照)。
ラザロの死に、涙を流した(ヨハ11・35参照)。
このようにして、多くの方法で、
ご自分の愛、繊細な友情、理解を示した。
ご自分のいのちを賜物として捧げるという、
愛の最高の証しに至るまで。
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今日の福音について、
もう一つの素朴な考察をすることも出来る。
ご自分の弟子たちを、ファリサイ派の人たちの非難から擁護するために
イエスは、共通の議論と、新しい原則を持ち出す、
「安息日は人のためにあるのであって、
人が安息日のためにあるのではない」。
この断言は、聞いている人々にとって
予期しない、驚くべきものとして響いたに違いない。
「先生」は安息日の価値を相対化した!
旧約聖書の中で、
安息日は絶対的価値を築いていた。
モーセは、神のみ旨で、
それを破ったものは死ななければならないと命じた(出35・2参照)。
今、それに反してイエスは、
イスラエル人たちが不可侵と考えていたこの規定の上に
人間の価値と、人間の権利を置いた。
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福音は、あらゆる盲目的厳格さ、
あらゆる狂信(盲目的信仰)に反対する。
自分自身を捧げること(il sacrificio di se stessi)を求めるが、
それはいつも神のいつくしみの光の中で。
パウロはコリントの信徒への第一の手紙の中で書いている。
「たとえ私が、全財産を人に分け与えても、
焼かれるためにわが身を引き渡しても、
愛がなければ、私には何の益もない」(一コリ13・1)。
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この一月、私たちが祈るように招かれている
キリスト教一致のための、私たちの務めも、
この意味においてなされるべきである。
カトリック教会も、他のあらゆる宗教グループのように、
絶対化する傾向がある。
しかし、いつくしみの道を、
イエスの霊に素直に導かれるに任せるべきである。
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