年間週日(奇数年)「ヘブライ人への手紙」年間第一金曜日に親しむ(Albert Vanhoye枢機卿)
年間第一金曜日[ヘブ4・1-5,11.マコ2・1-12]
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聖書学者Albert Vanhoye枢機卿は、
私たちに伝えています。
神のみことばは
決して私たちを厳しく非難するものではなく、
いつくしみ深い父である神の心を現わしていると。
私たちの日々の生活に
―たとえ困難、苦しみのただ中であっても―
確かな希望、喜び、平和をもたらす
私たちをご自分の子として気遣う「父」のことばであると。
Vanhoye師の言葉の試訳を聞きましょう。
[参考]
Albert Vanhoye, Il pane quotidiano della Parola. Volume secondo – Tempo ordinario/1, Edizione AdP (Ascolto della Parola) 2015.
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ヘブライ人への手紙は、
神の安息に入ることについて語りながら
「[その]約束がまだ残っている」と言っています。
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この箇所の、私たちが直ぐに理解する最初の意味は:
今私たちは荒れ野を旅している。約束の地は目の前にある。
私たちはまだそこに入っていないので、
苦労し、苦しみ、まだたくさんの妨害に立ち向かわなければならない。
けれど、神の約束があるので、
もし私たちが神の言葉に信頼を置くなら、正しい道を行き、
必ずいつの日か、神の安息に達することが出来るだろう。
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けれど、もう一つのさらに深い展望があります。
著者は言います:
「信じた私たちは、この安息に入ります」。
私たちはすでに今、神の安息に入ります。
神の招きは将来のためだけでなく、
すでに、今の時のためです。
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書簡の他の箇所で著者は言っています、
「私たちは、魂[いのち]のための
安全で確かな錨として携えています」(6・19)、
そしてこの錨は希望です。
私たちは、
将来、自分の苦労の報いを受けるという希望だけでなく、
神がすでに今、私たちにご自分の賜物を差し出しているのを
信仰の中に見ます。
これがキリスト者の態度です。
キリスト者は知っています、
生活(人生)の困難、心配、苦しみの中で
神が私たちを今から「ご自分の安息に入るよう」招いていること、
平和、平安、喜びの中に、ご自分と共にいるよう招いていることを。
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福音は私たちに、
信仰の即座の効果の例を差し出しています。
「イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、
『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた」。
イエスは「あなたの罪は、
最後の審判の時に赦されるだろう」とは言わず、
彼らの信仰を見て「あなたの罪は赦された」と言います。
信仰は、今から、神の賜物を獲得します。
たとえ状況がそれに反しているように見えるときでも。
信仰とは、希望するものを先取りして所有することです。
(La fede è il possesso anticipato delle cose che si sperano)
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私たちはいつでも神の安息の中に入るよう招かれています。
特にミサ聖祭において。
ミサの中で言われます、
「主[小羊]の食卓に招かれたものは幸い」。
主の食卓は、
将来、最後のときに起こるだろう天の祝宴です。
けれどミサ聖祭(エウカリスチア)の中で
私たちはすでに信仰において、
この天の祝宴に参与します。
ミサ聖祭において、
私たちは、神の喜び、愛、平和のうちに
神とともにいるよう招かれます。
一日のあらゆるときに
私たちはこの招きを聞かなければなりません、
「今、私の安息に入りなさい!」。
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ダニエル書3章が語っている三人の若者は
火の燃える炉に投げ込まれたとき
確かに平安な状況の中にはありませんでした。
しかしダニエル書は、天使が
「炎を炉の外に追い払った。
そのため、炉の中央を、
湿った風が吹いているかのようにしたので、
火はまったく彼らに触れることもなく、
何の気概も苦しみも与えなかった」(49-50)
と書いています。
殉教において三人の若者は
天にいるようであり、歌いました:
「ハナンヤ、アザルヤ、ミシャエルよ、
主を賛美せよ。
代々に主をほめたたえ、崇めよ。
主は[…]燃える炎の炉から
[私たちを]解放してくださった」(88節)。
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私たちもまた
逆説的な方法で―それはまさに信仰の道です―
同じ賛歌を繰り返すよう招かれています。
困難を通って、より深いレベルで
私たちは神に達するからです。
私たちは永遠に
キリストの愛の中に置かれています。
キリストは私たちに繰り返します:
「私の愛の中に留まりなさい」(ヨハ15・9)。
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