年間週日(奇数年)「ヘブライ人への手紙」に親しむ 年間第一月曜日(Albert Vanhoye枢機卿)
年間週日(奇数年)のミサ第一朗読には、ヘブライ人への手紙が読まれます。
著名な聖書学者であり、
特にヘブライ人への手紙の研究で知られている
聖書学者Albert Vanhoye枢機卿の説教集に伴われて
新約聖書の中で特殊な位置を占めているこの書に
より親しみたいと思います。
Vanhoye枢機卿は、ヘブライ人への手紙が
キリストの祭司職についての並外れて深い教えをしている
と述べています。
説教集の中から抜粋して見ていきましょう。
*年間第一月曜日
年間の始まり:神の御子であり人々の兄弟である「大祭司」キリスト
[ヘブ1・1-16、マコ1・14-20]
Vanhoye枢機卿は、
ヘブライ人への手紙の中で、キリストは
神の御子であるだけでなく
同時に人々の兄弟として示されていることを指摘します。
「神の御子として、キリストは天使たちよりも優れています。
人々の兄弟として、天使たちよりも劣っています。
御子として、神により近い者であり、
兄弟として、私たちにより近い者となります。
この二つの側面は
『大祭司』という名称の中に要約されます。
キリストは完全な仲介者であり、
キリストを通して私たちは三位一体の神の内奥に入ります。…」
***
「ヘブライ人への手紙は
『神は…この終わりの時には、
御子を通して私たちに語られました』と明言しています。
この年間の始まりに、
典礼は私たちに、福音において、
イエスの言葉、呼びかけを示します。
『私に従いなさい』。」
***
Vanhoye枢機卿は、
この一年の典礼暦の中で、
私たちはイエスに従わなければならない、と述べ、
「イエスに従うこと」には二つの側面があると言います。
一つは、謙遜、捧げること、自己放棄。
もう一つは肯定的側面、イエスと共にいることからくる満ち溢れ、喜び。
「イエスに従うために
私たちは自分自身を放棄しなければなりません。
つまり、行く道を決定しようとする自己を放棄すること。[…]
このことはしばしば、私たちにとって心地よいことではありません。
なぜならそれは、
私たちの自然な傾きを放棄するよう導き、
私たちを別の方向に行かせるからです。
あらゆる状況において、
『私は何がしたいか』と考える代わりに、
『主は何をお望みなのか』と考えなければなりません。
これが謙遜のしるしです:
それは、道を選ぶのは私たち自身ではなく、
私たちのために歩みを定めるのを他者に任せるという意味です」。
Vanhoye師は次の祈りで説教を結んでいます。
「主に願いましょう。
真の喜びを生きるために、
つねに主に従いたいという望みを
――たとえそれが時に放棄を意味するとしても――
私たちに与えてくださるように」。
[参考資料]
Albert Vanhoye, Il pane quotidiano della Parola. Volume secondo – Tempo ordinario/1, Edizione AdP (Ascolto della Parola) 2015.
Albert Vanhoye, Ebrei (Lettera agli), in Nuovo Dizionario di Teologia Biblica, San Paolo 19966, pp. 430-437)
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