聖パウロの回心:日々のみ言葉の黙想から(Albert Vanhoye枢機卿)

A. Vanhoye, Il pane quotidiano della Parola. Vol.4: Solennità e Santi, AdP, Roma 2015.

[試訳]

聖パウロの回心

使徒22・3-16(又は使徒9・1-22)

詩編116

マコ16・15-18

[導入]

Vanhoye枢機卿は、

この祝日の中心は、パウロの回心が

神の力あるわざの現れであることを強調しています。


この日はまた、キリスト教一致週間の最終日です。

Vanhoye師は、パウロの回心の出来事から、

一致についての考察を深めています。


「人間的考え」による神への熱意に溢れていたパウロに、

イエスは「真の一致」―神の思いに沿った一致―を示し、

彼を「回心させました(ha convertito)

つまり、パウロの回心は、彼自身の努力である前に

神のわざであった、と。


使徒言行録には、パウロの回心についての三つの叙述があり

それぞれ詳細において異なりますが、

一貫しているのは本質的要素であるイエスの言葉です、

「私は、あなたが迫害しているナザレのイエスである」。

つまり、イエスはご自分と弟子たちの間の深い一致を明らかにしました。


それはおそらくパウロにとって

「キリストの体(il Corpo di Cristo)」である教会についての

最初の啓示だっただろう、とVanhoye師は述べています。


イエスはパウロを、ご自分の「体」である教会に導きます。

イエスはご自分の使徒となるパウロに、

個人主義的回心は望ます、

教会の中に挿入し(inserire)―ご自分の「体」に参与させ―

その他の弟子たちとの関係のうちにおくことを望みます。


ですから、ご自分の「体」―教会―の分裂は

イエスの痛みであり、それはパウロの心の痛みとなりました。


私たちはこの痛みを

感じなければなりません、とVanhoye師は訴えます。


以下、試訳です。


***

今日、私たちは、

神の力がどのようにパウロの中で働いたかを見ます。

パウロは、キリスト者の迫害者から、使徒になりました。

パウロは、イエスへの信仰を受け入れ、

並外れた使徒活動の実りをもってそれを広めました。


***

今日はまた、キリスト教一致週間の最終日でもあります。

パウロの回心の、一致のテーマと関わる幾つかの要素について

考えてみましょう。


***

サウルは神の民の一致をひじょうに気にかけていました。

まさにその思いが、

キリスト者の迫害へと彼を駆り立てました。


実際、「先祖の律法について厳しい教育を受け、

熱心に神に仕えていた」サウロは、

自分の民が古い伝統から離れるという考えを

受け入れませんでした


サウルは、逮捕された後、彼の弁明を聞いたユダヤ人たちに

彼の熱意は彼らの熱意と同じであると告白します。


彼は言います

「[私は]今日の皆さんと同じように、

熱心に神に仕えてきました」


***

ですから、サウルは熱意に溢れていたと言うことが出来ます、

しかし、パウロ自身が認めたように、間違った方法で。


「私は彼ら[ユダヤ人たち]が神に対して熱心であることを証ししますが、

その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません」(ロマ10・2)。


それは神への熱意ですが、

人間的メンタリティーで理解されたものでした。


***

サウルが神の民の一致を守るために、

あらゆる手段―暴力的なものも―を使っているとき、

イエスが彼を「回心させ」ました(lo ha «convertito»)、

何が辿るべき真の一致であるかを明確に示しながら。


パウロは語っています、

「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、

真昼頃、突然、天から強い光が私の周りを照らしました。

私は地面に倒れ、

『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と

語りかける声を聞いたのです。

『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、

『私は、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と

答えがありました」。


***

使徒言行録が差し出す

パウロの回心についての三つの叙述の中で

異なる詳細はありますが

―幾つかの詳細が加えられたり、その他のものは消えたり―、

しかし上述した言葉はつねに繰り返されます

なぜならそれらの言葉は真に本質的だからです。


明らかにサウルは

キリスト者たちを牢に送っていたとき、

イエスを迫害していたという意識はありませんでした。


しかし、回心のとき、

イエスは、ご自分とご自分の弟子たちの間に存在する

深い一致(結びつき)を彼に明らかにしました。

「私は、あなたが迫害しているナザレのイエスである」。


これがおそらく

パウロが「キリストの体」についての

最初の啓示を受けたときだったでしょう。


その後パウロは、彼の書簡の中でそれについて語るでしょう。

私たちは皆、キリストへの信仰を通して、キリストの肢体です。

このことに、私たちの一致があるのです、と。


***

それからサウルは尋ねます、

「主よ、どうしたらよいでしょうか」。


イエスは彼の質問に直接には答えず、

彼に言います、

「立ち上がってダマスコへ行け。

あなたのなすべきことは、すべてそこで告げられる」。


イエスは、ですから、パウロを教会へと導きます。

イエスはご自分の使徒に、

他の弟子たちとの何の関係ももたない

個人主義的回心を望みません。


そうではなく、パウロが、

ご自分の体である教会の中に

挿入されることを望みます。

真の信仰において生きるためには、

教会に参入しなければなりません。


***

回心の後、パウロは

イスラエルの民と一致する望みを、

心の中で保ち続けます。


彼はそれをローマの信徒への手紙の中で、

深い感動を示す言葉をもって明かしています、

「私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。

私の良心も聖霊によって証ししているとおり、

私には深い悲しみがあり、

心には絶え間ない痛みがあります。

私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、

キリストから離され、

呪われた者となってもよいとさえ思っています。

彼らはイスラエル人です。

子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は

彼らのものです。

先祖たちも彼らのものであり、

肉によればキリストも彼らから出られたのです。

キリストは万物の上におられる方。

神は永遠にほめたたえられる方」(ロマ9・1-5)。


***

一人ひとりのキリスト者は

このパウロの同じ痛みを感じるべきです。

私たちをイエスの心に結びつける、神の心に沿った痛み。

それは、イエスを認めないイスラエルの民のための痛み、

分裂し、主が望む一致に達していないキリスト者のための痛みです。

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