教皇フランシスコ、年間第三主日、「みことばの主日」ミサ説教

教皇フランシスコは、2021年1月24日、

年間第三主日のミサ説教の中で

(司式のフィジケッラ大司教が教皇の言葉を読みました)

その日の福音書(マルコ1・14-20)から

神の国を告げるイエスが「何を」「誰に」語っているか

見てみましょうと招いています。

[以下、要約的試訳です]


「何を」語っているのか。

イエスは宣教を

「時は満ち、神の国は近づいた」(マコ1・15)

という言葉で始めます。


「神は近くにおられる」、これが最初のメッセージです。

神の国は地上に降りてきました。

神は、私たちがしばしば考えるように

遠く天におられるのではありません。


神がイエスのうちに人となったとき、

遠く離れた時代は終わりました。

その時から、神はひじょうに近くにいます。

神は、私たちの人性から決して離れず、

私たちの人性に決して疲れることはないでしょう。


この神の近しさが福音の初めです。

そしてそれをイエスは

「言われた[言っておられた](diceva)」(15節)と

福音箇所は言っています。

つまり、一回だけ言ったのではなく、

それを言い続けた、と。


「神は近くにおられる」というのは

イエスの宣教のライトモチーフ(中心思想)、

イエスのメッセージの中心なのです。


***

もしこれがイエスの宣教の始まりであり、

繰り返されることであるなら、

それは、キリスト者の生活や宣教にとって

持続的なものでなければなりません。


あらゆるものに先立って、

神が私たちに近づいておられること、

私たちは恵みを受けた者、

「いつくしみを受けた者(misericordiati)」であることが

信じられ、告げられるべきです。


私たちのどんな言葉よりも先に

私たちのための「みことば」があります。


そのみことばは絶え間なく言っています、

「恐れるな、私はあなたと共にいる。

私はあなたの近くにいる。

これからも近くにいるだろう」


***

神のみことばは

この「近しさ」を私たちに触れさせます。


申命記が言うように、

神のみことばは私たちの遠くにあるのではなく

私たちの心の近くにあるからです(申30・14)。


***

それは人生に立ち向かい孤独になる恐れへの

解毒剤です。


実際、主は、ご自分のみことばを通して

「慰めます(con-sola)」

つまり「孤独でいる人(solo)」と「共に(con)」おられます。


主は私たちに語りかけながら

私たちに思い起こします。

私たちが主の心の中にあること、

主の目に尊いこと、

主の手のひらの中に守られていることを。


***

神のみことばはこの平和を注ぎ込みます、

けれど「平和のうちにいさせてくれません」

(そっておしておいてくれません)(non lascia in pace)


それは慰めのみことばですが、

回心のみことばでもあります。


実際イエスは、神の近しさを宣言したすぐ後、

「回心しなさい(悔い改めなさい:convertitevi)」と言います。


なぜなら、神の近しさとともに、

私たちが神と人々から距離を置いた時代は終わったのです。

各々が自分のことを考え、自分のしたいように進む時代は

終わったのです。


それはキリスト教的ではありません。

神の近しさを経験した人は、

隣人から離れていること、

無関心でいることは出来ないからです。


***

この意味で、神のみことばを頻繁に聞く人は

健全な実存の逆転(salutari ribaltamenti esistenziali)を

受け入れます。


その人は見出します、

人生は、他の人々から身を守り、自分自身を擁護するための時期ではなく

近くにおられる神の名のもとに、

人々に出会うために出て行く機会であることを。


***

このようにして、

私たちの心の土地に蒔かれたみことばは

私たちを、近しさを通して希望を蒔く者とします。

まさに、神が私たちにしてくださるように。


***

「誰に」語るのか


イエスは「誰に」語っているのでしょう。


イエスは最初に、ガリラヤの漁師たちに語りかけます。

彼らは素朴な人々でした

昼夜、厳しい仕事をしながら、

自分たちの労働の実りで生活していました。


彼らは聖書の専門家ではありませんでした。

確かに学問や文化に際立ってはいなかったでしょう。


彼らは、さまざまな民族、多様な文化で構成された地域に

住んでいました。

それは、国の中心であるエルサレムの宗教的清さから

最も離れた場所でした。


しかしイエスはそこから始めました。

中央からではなく、周辺地から。


イエスがそうしたのは、

誰も神の心から排斥されていないことを

私たちにも語るためでした。

すべての人がイエスのみことばを受け、

イエスご自身に出会うことが出来ました。


***

これに関して、福音の中にすばらしい詳細があります。

イエスの宣教が、洗礼者ヨハネの宣教の「後に」来たことを

述べているときに(マコ1・14)。


それは違いを印す、決定的な「後」でした。


***

洗礼者ヨハネは、人々を荒れ野で受け入れていました。

その場所には、自分たちが住んでいる場所を離れて、

そこに行くことが出来る人だけが行きました。


それに対して、イエスは、

社会のただ中で、すべての人に、

その人々が住んでいるところで

神のことを語りました。


イエスは、決められた時間だけに

語ったのではありません。


「ガリラヤ湖のほとりを歩きながら」

「網を打っていた」漁師たちに語りかけました(16節)。


イエスは「最も普通の」場所、時間において

人々に語りかけます。

これが、すべての人、生活のあらゆる環境に届く

神のみことばの普遍的な力です。


***

けれどみことばはまた独特の(個別の)力(la forza particolare)、

つまり、一人ひとりに直接的、個人的に刻みつける力を

もっています。


弟子たちはあの日、

湖のほとり、船、家族、仲間の近くで聞いた言葉、

彼らの人生を永遠に刻印するだろう言葉を忘れませんでした。


イエスは彼らに言います、

「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。


イエスは彼らを、高級で近寄りがたい説教で引きつけるのではなく、

彼らの生活に語りかけます。

漁師たちに、人間をとる漁師にしようと言います。


もしイエスが彼らに、

「私に付いて来なさい。あなたたちを私の使徒にしよう。

あなたたちは世に遣わされ、霊の力で福音を宣べ伝え、

殺されるだろうが、聖人になるだろう」などと言ったとしたら、

ペトロやアンドレがどう答えたか想像することが出来ます。


「ありがとうございます。

でも私たちは、自分の網、自分の船の方がいいのです」。


イエスは、そうではなく、

彼らの生活から出発して、彼らを呼びます。

「あなたたちは漁師です。これから人間をとる漁師になるでしょう」


彼らは、この言葉に貫かれ、

少しずつ(一歩一歩)、見いだしていきます。

魚をとって暮らすのは小さなことで、

イエスのみことばに従って沖に出ることこそ

喜びの秘密であることを。


***

このように、主は私たちにもなさいます。

主は、私たちがいるところに、私たちを探し、

ありのままの私たちを愛し、

忍耐をもって私たちの歩みに寄り添います。


あの漁師たちを、

彼らが生活している湖のほとりで待っていたように、

私たちをも待っておられます。


主はご自分のみことばをもって

私たちの航路を変えることを望んでおられます。

私たちが、どうにかやっていくという生活を止めて、

イエスの後について沖に出るように。


***

ですから、愛する兄弟姉妹のみなさん、

神のみことばを放棄しないようにしましょう。


神のみことばは、

私たちを誰よりもよく知っておられる方によって

私たちのために書かれた愛の手紙です。


私たちは、それを読みながら、

再びその方の声を聞き、

その方の顔を見分け(見つけ)、

その方の例を受け取り増す。


みことばは、私たちを神に近づけます。

みことばから離れないようにしましょう。


いつも私たちと共にみことばを運びましょう。

みことばに、私たちの持ち物の中でふさわしい場所を作りましょう。


福音書を、私たちが毎日、たとえば一日の最初と終わりに

それを開くことを思い起こすような場所に置きましょう。


私たちの耳に達するたくさんの言葉の中で、

神のみことばの幾つかの箇所が心に達するように。


***

これをするために、主に力を願いましょう。

テレビを消して聖書を開く力、

携帯電話を閉じて福音書を開く力を。


今年の典礼暦の中で、私たちは

一番シンプルで短いマルコによる福音を読みます。

それを、独りでも、毎日、少しの箇所を読んでみませんか。

それは私たちを、主が近くにおられることを感じさせ、

人生の歩みにおいて勇気を注ぎ込むでしょう。

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