第55回 世界広報の日メッセージ(2021)
「来て、見なさい」(ヨハ1・46)。
人々と出会いながら伝達する。
~人々がいる場所で、ありのままの人々と出会いながら~
愛する兄弟姉妹たち、
イエスの、弟子たちとの最初の感動的な出会いに伴われる
「来て、見なさい」という招きは、
人間のすべての真のコミュニケーションの方法でもあります。
「物語(ストーリー)となる生活」の真実を語るためには、
「すでに知っている」という安易な思い込みから脱出し、
動き出し、見るために出て行くこと、人々と一緒に留まり、話を聞き、
何らかの面で私たちを常に驚かせる現実の示唆を集めることが必要です。
福者Manuel Lozano Garrido(スペインのジャーナリスト:1920-1971)は、
同僚のジャーナリストたちに勧めていました。
「見るものに驚きをもって目を開き、
あなたの手が樹液のみずみずしさで満たされるに任せなさい。
人々が、あなたの記事を読んだとき、
生活(いのち)の脈動する奇跡に触れることが出来るように」
«Apri con stupore gli occhi a ciò che vedrai, e lascia le tue mani riempirsi della freschezza della linfa, in modo che gli altri, quando ti leggeranno, toccheranno con mano il miracolo palpitante della vita»
ですから今年のメッセージを、
「来て、見なさい」という招きに捧げたいと思います。
明快(透明)で正直でありたいと望む
あらゆるコミュニケーションの表現への提案として:
新聞の編集部でも、ウェブの世界でも、
教会の通常の説教でも、政治的・社会的コミュニケーションにおいても。
「来て、見なさい」は、キリスト教の信仰が始められた方法です。
ヨルダン川とガリラヤ湖のほとりの最初の出会いから出発して。
靴底をすり減らす
情報という大きなテーマを考えてみましょう。
注意深い声は以前から嘆いています。
「フォトコピーの新聞」や、
本質的に同様の、テレビ、ラジオ、ウェブサイトの情報における
平均化(フラット化)の危険を。
その中では、時前にパッケージ化された、
「政治権力の中枢の」自己言及的な情報の優位性のために
取材やルポタージュのジャンルが空間や質を失っています。
そのような情報は、
ものごとの真実、人々の具体的な生活を捉えることが出来ず、
もはや、最も深刻な社会的現象も、
社会の底辺から放たれるポジティブなエネルギーも
把握出来なくなります。
出版業界の危機は
編集室で、パソコンの前で、代理店の端末で、
ソーシャルネットワーク上で構築された情報をもたらす危険があります。
一度も道に出て行くことなく、
もはや「靴底をすり減らす」ことなく、
物語(ストーリー)を求めたり、
ある状況を「目で見て」確かめることもなく。
もし私たちが出会いへと開かないなら、
私たちは外的な観客(傍観者)のままです。
私たちが浸されているかのように見える増加された現実の前に
私たちを置くことを可能にする技術的革新にも関わらず。
すべての道具は、
出て行き、見ない限り知ることが出来ないものごとを
出て行って、見るよう私たちを促す限りにおいて有益です。
そうでない限り出会えない出会いを可能にする限り有益です。
福音書の記述の詳細
イエスは、ヨルダン川での洗礼の後、
ご自分を知りたいと望んだ最初の弟子たちにこたえます、
「来て、見なさい」(ヨハ1・39)。
ご自分との関係を生きるよう招きながら。
半世紀以上後、ひじょうに年老いたヨハネが福音を書いたとき、
自分がその場所にいたこと、
あの経験が自分の人生に与えた影響を明らかにする
いくつかの「ニュース」の詳細を思い起こします:
「それは第十の時(l’ora decima)頃だった」、
つまり午後四時頃だと記しています(39節参照)。
ヨハネは続けます。
翌日、フィリポはナタナエルにメシアとの出会いを伝えます。
ナタナエルは懐疑的です:「ナザレから何か良いものが出ようか」。
フィリポは彼を理論で説得しようとはしません。
彼に言います、「来て、見なさい」(45-46節参照)。
ナタナエルは行って、見て、その時から彼の人生は変わります。
キリスト教の信仰は、このように始まります。
誰かから聞いたことではなく、経験から生まれた直接の知識として
始まります。
「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったからである」と、
人々は、イエスが彼らの村に滞在した後、サマリアの女に言います。
「来て、見なさい」は、
現実を知るための、最もシンプルな方法です。
それはあらゆる告知の最も正直な確認です。
なぜなら、知るためには出会う必要があるからです。
私の前にいる人が語るのを許し、
その人の証しが私に届くに任せることが必要だからです。
多くのジャーナリストの勇気に感謝します
真実を語ることとしてのジャーナリズムも、
誰も行かないところに行く能力を求めます:
動き出すこと、見たいという望み。好奇心、開かれた心、熱意。
私たちはたくさんの専門家たち
―ジャーナリスト、カメラマン、編集者、ディレクターなど、
しばしばリスクを背負って仕事をしている人々―に
感謝しなければなりません。
今日私たちが、
世界の様々な地域で迫害されている
未成年者の困難な状況を知っているとしたら、
貧しい人たち、被造界に対する
多くの権力乱用や不正が告発されるとしたら、
多くの忘れられた戦争が語られるとしたら、
それは彼らの勇気と献身のおかげです。
このような声が消えてしまうことは、
情報のためだけでなく、
社会全体や民主主義にとっても損失です。
私たちの人間性を損なうことになります。
地球についての多くの現実、
―このパンデミックの時代にはなおさら多くの現実-が、
コミュニケーションの世界を招いています、「来て、見る」ようにと。
パンデミックを、あらゆる危機のように、
より金持ちの世界の視点だけで語る危険、
「二重帳簿」を保有する危険があります。
貧困層を排除するリスクのある、
ワクチンの問題、医療全体の問題を考えてみましょう。
誰が、アジア、南アメリカ、アフリカの最も貧しい村が
治療を待っていることを私たちに伝えるでしょうか。
このように、地球規模の社会的・経済的な違いは
抗コロナウィルス・ワクチンの分配の順番を印す危険があります。
貧しい人はつねに最後になり、
原則として認められている、すべての人のための健康への権利は
その現実の価値を空しくされます。
しかし、より恵まれた人々の世界でさえ
急速に貧困に陥った家族の社会的ドラマは
殆ど隠されたままです。
羞恥心に打ち勝って、食べものを受け取るために
「カリタス」センターの前に列を作っている人々は
大きなニュースにはなりません。
ウェブにおける機会とわな
無数の「社会的(ソーシャル)」表現をもつウェブは、
物語を語る能力、共有の能力を倍増させることが出来ます。
世界に開かれたより多くの目、画像や証言の継続的な流れ。
デジタル技術は私たちに、
時にひじょうに有益な、最新のタイムリーな情報の可能性を与えます。
ある種の緊急事態において、
最初の情報や人々への奉仕の最初の通信が
まさにウェブ上で運ばれることを考えます。
それは、私たちすべてを、利用者として、享受者として責任を負わせる、
驚くべき道具です。
可能性として、私たちはみな、
従来のメディアから無視されるだろう出来事の目撃者となり、
私たちの市民の貢献をし、
ポジティブなものも含めて、より多くの物語(ストーリー)を
引き出すことが出来ます。
ウェブのおかげで、
私たちが見ているもの、目の前で起きているものを語り、
証言を共有することが出来るようになりました。
***
しかし、検証されていない
「社会的(ソーシャル)」コミュニケーションのリスクも
誰の目にも明らかになっています。
私たちは、すでに、
たくさんの理由で、時に陳腐な自己陶酔主義(ナルシズム)のために、
ニュースや画像さえも簡単に操作されてしまうことを知っています。
そのような批判的意識は、
ツール(道具)の悪魔化(悪者化)ではなく、
コンテンツを広めたり、受け取ったりする際に、
識別のより優れた能力と、より成熟した責任感へと駆り立てます。
私たちは、私たちが行うコミュニケーション、私たちが与える情報、
私たちが偽の情報に対して、真相を解明しながら、
一緒に行使することが出来るコントロールの責任をもっています。
私たちはみな、真実の証人となるよう招かれています。
行って、見て、共有するよう招かれています。
自分の目で見ることに勝るものはない
コミュニケーションにおいて、
自分で見ることに完全に取って代わるものはありません。
「経験からしか学べないこともあります」。
実際私たちは言葉だけでコミュニケーションをとるのではなく、
まなざしで、声の調子(トーン)で、しぐさ(ジェスチャー)で
コミュニケーションを取ります。
イエスの、ご自分に出会った人に与える強い魅力は、
その説教の真実性に依りますが、
イエスが語ることの効果は、
イエスのまなざし、態度、さらには沈黙と切り離せないものでした。
弟子たちはイエスの言葉を聞くだけでなく、
彼が話すのを見ていました。
実際、受肉したロゴスであるイエスの中で、
みことばは「顔(表情)」となり、
目に見えない神は、ヨハネ自身が書いているように、
ご自分を見えるもの、聞くもの、触れるものとしました(一ヨハ1・1-3参照)。
言葉は、「見られて」こそ、
経験の中で自分を巻き込んでこそ効果があるのです。
そのために、「来て、見る」ことが本質的でした。
そしてこれからもそうです。
***
私たちの時代においても、
公共生活のあらゆる分野、商業や政治のあらゆる分野で、
どれほど空虚な雄弁さがあふれているかを考えましょう。
「無限に話し、何も言わないことが出来る。
その人の理由は
二スタイオのもみ殻の中の、二粒の麦である。
それらを見つけるために一日中探さなければならず、
見つけられたとき、それらは探すに値しない」
(シェイクスピア、『ヴェニスの商人』)。
«Sa parlare all’infinito e non dir nulla. Le sue ragioni sono due chicchi di frumento in due staia di pula. Si deve cercare tutto il giorno per trovarli e, quando si son trovati, non valgono la pena della ricerca».[2]
このイギリスの劇作家の辛辣な言葉は、
私たちキリスト者のコミュニケーターにも当てはまります。
福音の善い知らせは、
人と人との出会い、心と心の出会いを通して世界中に広まります。
「来て、見なさい」という同じ招きを受け入れた男女は、
イエス・キリストを証しした人々のまなざしや言葉、しぐさの中に透けて見える、人間性の「プラス・ワン」(un “di più”)に心を打たれました。
すべての道具は大切です。
タルソのパウロと呼ばれるあの偉大なコミュニケーターは、
確かに電子メールやソーシャルメッセージを利用したでしょう。
けれど、彼と共に過ごし、集会や個人的対話の中で彼を見る幸運に恵まれた
同時代の人々を印象づけたのは、彼の信仰、希望、愛でした。
パウロが活動していた場所で彼を見て、
人々は、パウロが神の恵みによって運んだ救いの知らせがいかに真実であり、
人生にとって実りあるかを実証したのです。
そして、この神の協力者に直接会うことが出来なかったところでも、
彼のキリストにおける生き方は、
彼が遣わした弟子たちによって証しされました(一コリ4・17参照)。
***
聖アウグスティヌスは、
「私たちの手には本があり、目には事実がある」と断言しました。
現実の中に、聖書の中の預言が実現されるのを見いだすよう勧めながら。
このように、今日も福音は、
イエスとの出会いによって人生が変えられた人々の明瞭な証を
私たちが受けるたびに起こっています。
二千年以上もの間、キリスト教の冒険の魅力を伝えてきたのは
出会いの連鎖です。
ですから、私たちの課題(挑戦)は
人々と、彼らがいる場所で、彼らのありのままに出会いながら
コミュニケーションをとることです。
***
主よ、自分自身から出て行き、
真実を求めて歩み出すことを教えてください。
行って、見ることを教えてください。
主よ、自分自身から出て行き、
真実を求めて歩み出すことを教えてください。
行って、見ることを教えてください。
誰も行きたがらないところに行くことを教えてください、
理解するために時間をかけること、
余計なことに気を取られないこと、
外見に惑わされないこと、
欺く外見と真実とを見分けることを教えてください。
あなたのこの世の住まいを認める恵みと、
見たことを語る正直さを与えてください。
ローマ、ラテラノ大聖堂、
2021年1月23日、
聖フランシスコ・サレジオの記念日前晩に
フランシスコ
Franciscus
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