Sr.ルカの独り言:天を見上げ、地上を歩む(2021年3月9日)

(教皇フランシスコ、諸宗教代表者との集い:ウル、2021年3月2日)


教皇フランシスコは、イラク訪問の中心である、アブラハムの地、ウルで、

諸宗教代表者たちと会いました。

まさに、教皇ヨハネ・パウロ二世の悲願の実現です。


ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通の父、アブラハムは、

私たちに「慈しみ深い父」を力強く証ししています。


「集い」での教皇フランシスコの最初の言葉を聞きましょう。


愛する兄弟姉妹のみなさん、

この祝福された地は、私たちを、

起源、神のわざの源、私たちの宗教の誕生に連れて行きます。


私たちの父アブラハムが住んだこの場所で

私たちは、あたかも故郷に帰ったように感じます。


ここで、アブラハムは、神の呼びかけを聞きました。

ここから、アブラハムは、旅に―歴史を変えることになる旅に―出発しました。


神はアブラハムに、天を見上げ、星を数えるよう求めました(創15・5参照)。

これらの星の中に、彼は自分の子孫の約束を見ました。私たちを見ました。


そして今日、私たち、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒は、

他の宗教の兄弟姉妹たちと一緒に、父アブラハムをたたえます。

彼のようにしながら:天を見上げ、地上を歩むこと。


私たちの信仰の父アブラハムのように「天と見上げ」「地上を歩むこと」。


私はよく、「鷲目線」と「蟻さん目線」の話をします。


「鷲目線」


人間は、地面ばかりを見て生きるようには造られていません。

人間の内奥、私たちの存在の奥には、神のイメージ、像が刻まれています。


聖書の伝統の中で、人間、私たちが「楽園」「父の家」に帰る、と言うとき、

それは、私たちの外にあるもの、異質なもの、私たちとは違うところに

頑張って帰る、ということではありません。


私たちはすでに、神の「内」にあります。

ユダヤ教・キリスト教の人間論の中心には、

神が人間を、ご自分の像、似た者に造った、という聖書の証しがあります。


「我々のかたち(像)に、我々の姿に人を造ろう」(創1・26)。


だから、鷲目線―神さま目線―が必要です。


「蟻さん目線」


けれど同時に、私たちは、天を見上げてばかりいたら、生きていけません。

神は私たちを、天使ではなく、体をもつ人間としてお造りになりました。

被造界の世話を託しながら、

つまり、賜物としていただいた自由をもって、自らの手で働きながら。


それが、神の創造の協力者として呼ばれている、ということです。

それに関するユダヤ教伝統は豊かです。

いつかみなさんと分かち合う機会があればよいと思います。


また、イエスが、病や罪に傷ついた人を、具体的に癒し、解放することによって

「福音―善い知らせ―」を告げたこと、

イエスが復活の後、それ―福音を告げ知らせること―を使徒たちに託し、

使徒たちを通して、ご自分に従うすべての人に託したことは意味深いと思います。


教皇フランシスコが好んで言うように、

実際に人々のところ、現場に出て行き、手を汚し、汗をかき、心を動かし…

そのようにして「善い知らせ」を伝え、証しすること。


だから、「蟻さん目線」。


***

天を見上げる

教皇フランシスコの言葉に戻りましょう。

教皇は、ウルの地で、諸宗教代表者に向かって、

この、信仰の源泉、私たちの父アブラハムの地で、

共に「天を見上げ」、「神が慈しみ深い(憐み深い)方」であることを宣言しましょう、と招きます。


兄弟を憎むことは、「慈しみ深い」神の名を最も冒涜する侮辱だ、と言いながら。


敵意、過激さや暴力は、宗教的な魂から生まれたものではありません。

それらは、宗教に対する裏切りです。

そればかりか、そのような誤解を解くのは、私たちにかかっています。

天の光が、憎しみの雲に覆われることを、私たちは赦してはなりません。


教皇フランシスコは、この地で、憎しみの犠牲になった人々を具体的に思い起こします。


私は特に、多くの男性の死を悼み、

何千人もの女性、少女、子どもが誘拐され、奴隷として売られ、身体的暴力を受け、

強制的に改心させられるのを見てきた、ヤジディ共同体を思い起こしたいと思います。

今日、私たちは、そのような苦しみを負った人たちのために祈ります。

また、今も行方不明になっている人たちや拉致された人たちが

早く故郷に戻れるように祈ります。


そして、人間の基本的な権利、良心の自由と信仰(信教)の自由が

あらゆる場所で尊重されるように、と祈ります。


良心の自由と信仰の自由は、人間の基本的な権利です。

それは人間が、自由に「天」を見つめることを可能にします。

人間は天のために造られたのです。


実際、「天を見上げる」ことを禁じることは、誰にも出来ません。

人間の心の中心には「天」があるからです。神のイメージがあるからです。


地上を歩む


天を見上げることは、アブラハムに、地上を歩むことを忘れさせるどころか、それを促し、

このようにしてアブラハムは、あらゆる時代、あらゆる場所に至るだろう旅を始めた、

と教皇フランシスコは述べます。


すべては主が、「彼をウルから連れ出した(出て行かせた)」ことから始まります。

(創15・7参照)


それは困難、犠牲を伴う「出て行く歩み(un cammino in uscita)」でした。

アブラハムは住んでいた土地、父の家を後にしなければなりませんでした。

けれど、自分の家族を放棄しながら、多くの民の家族の父となりました。

私たちにもまた、同じようなことが起こります、と教皇フランシスは言います。


そうです、私たちは自分自身から出て行かなければなりません。

なぜなら、私たちは互いを必要としているからです。

[コロナ]パンデミックは私たちに理解させました。

「誰も一人きりでは救われない」ことを(『Fratelli tutti』54項)。


「誰も一人きりでは救われない」…

この地球は、神が私たちにケアする(世話する、気遣う、癒す…)よう託した

「共通の家」であり、

すべての人は「同じ一つの船」に乗って旅をしている、

私たちは互いのいのち、被造界のいのちに対して「責任がある」と、

教皇はあらゆる機会に繰り返します。


神のいのちを真ん中にする生き方は、

他の人々のいのちを大切にする生き方でもありますね。

祈りつつ

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