教皇フランシスコ、内赦院(ないしゃいん)セミナー参加者へ(2021年3月12日)
教皇フランシスコが「赦しの秘跡」について語っているので
四旬節の歩みの助けになると思い、試訳の一部を分かち合いたいと思います。
要約は、バチカン放送の日本語HPにも載っています。
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/ai-partecipanti-corso-penitenzieria-apostolica-20210312.html
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[試訳]
愛する兄弟のみなさん、こんにちは![…]
今回で31回目を迎える、内赦院が主催するセミナー
[聴罪司祭を対象に、「ゆるしの秘跡」について考える]の機会に
みなさんを迎えることが出来ることを嬉しく思います。
このセミナーは、摂理的に、
悔い改めの季節、荒れ野の季節、
回心、悔い改め、いつくしみを受け入れる季節―私たちにとっても―である
四旬節の季節に当たる慣例的なものです。[…]
赦しの秘跡の三つの表現
赦し(和解)の秘跡の意味をよく説明している、三つの表現に留まりたいと思います。
赦しの秘跡を受けに行くことは、
汚れを取り去るために、クリーニング屋に行くことではありません。
違います。まったく別のことです。
赦しの秘跡が何であるか、よく考えてみましょう。
この秘跡、この神秘を説明する
第一の表現は:[神の]「愛」に自分自身を委ねること、
第二の表現は:「愛」によって自分が変えられるに任せること、
第三の表現は:「愛」に相応する(ふさわしくなる)ことです。
つねに[神の]「愛」が中心です。
秘跡において「愛」がないなら、それはイエスが望んでいるようなものではありません。
もし機能性があるとしたら、それはイエスが望んでいるものではありません。
「愛」。赦された罪人である兄弟の、赦された罪人である兄弟姉妹に対する愛。
これが基本的な関係です。
第一:「愛」に自分自身を委ねること
「愛」に自分自身を委ねることは、信仰の真の行為を成し遂げることを意味します。
信仰は決して、概念のリストや、一連の信じるべき宣言に減少されてはなりません。
信仰は関係の中に表現され、理解されます:
呼びかけと答えの論理(ロジック)に従って、神と人間との関係、人間と神との関係。
逆もまた真実です:私たちは必要な時に神を呼び求め、神はいつも答えます。
信仰は「いつくしみ」(la Misericordia)との出会いです。いつくしみである神ご自身との出会いです―神の名は「いつくしみ」です―。
そして、信仰は、この神秘的で寛容な(献身的な)「愛」の腕の中に身を委ねることです。
私たちはこの「愛」をひじょうに必要としていますが、時に、身を委ねることを恐れます。
***
経験は教えています。神の愛に身を委ねない人は、遅かれ早かれ、何か他のものに身を委ねることになります、この世のメンタリティーの「腕の中に」身を委ねることになります。それは最後には、幻滅、悲しみ、孤独感をもたらし、癒されることはありません。
ですから、赦しの秘跡のための最初の一歩は、まさに信仰の行為、委ねる行為です。
それをもって、痛悔した者は「いつくしみ」に近寄るのです。
ですから、すべての聴罪司祭は、つねに驚嘆することが出来なければなりません。
信仰によって、神に赦しを願う兄弟たちのために、
また、ただ信仰によって、赦しの秘跡において自分自身を明け渡しながら、自分を神に委ねる兄弟たちのために。
自分の罪に対する痛みは、そのような、「愛」への信頼ある自己放棄のしるしです。
第二:「愛」によって自分が変えられるに任せること
このように赦しの秘跡を生きることは、
愛によって自分が変えられるに任せることを意味します。
それは、私が考察することを望んでいる、二番目の側面、二番目の表現です。
私たちは、救うのは掟ではないことを良く知っています。マタイ23章を読めば十分です。
人が変わるのは、無味乾燥な一連の規律を通してではなく、
先立つ「愛」、無償で差し出される「愛」の魅力を通してです。
それはイエス・キリストにおいて、私たちのための十字架の死において
十全に表された「愛」です。
このように「愛」は―それは神ご自身です―、人々に目に見えるものとなりました。
以前には考えられない方法、全く新しい方法、
ゆえに、すべてのものを新しくすることの出来る方法において。
秘跡における対話のうちに。
この、迎え入れる「愛」の一筋の光に出会った痛悔者は、
「愛」によって、「恵み」によって自分が変えられるに任せます。
あらゆる赦しの秘跡において起こる、石の心の、肉の心への変容を経験し始めながら。
感情(情緒)的な生活においてもそうです:
それは大きな愛との出会いによって変えられます。
***
良い聴罪司祭は、つねに、変化の奇跡を見分けるよう、
痛悔者の心の中の「恵み」のわざに気づくよう招かれています。
その変容させるわざを、出来得る限り促しながら。
罪の告白の誠実さ(全体性:integrità)は、「愛」のわざである、この変容のしるしです。
すべてが明け渡されます。すべてが赦されるために。
第三:「愛」に相応する(ふさわしくなる)こと
三つ目、最後の表現は:「愛」に相応する(ふさわしくなる)ことです。
委ねること、「愛」によって変えられるに任せることは、
必然的に、受け入れた愛にこたえることになります。
キリスト者は常に、聖ヤコブの言葉を頭に入れています:
「行いのないあなたの信仰を見せてください。そうすれば
私も行いによって、私の信仰を見せましょう」(2・18)。
回心の真の意志は、受け取り、迎え入れた神の愛へのこたえにおいて具体的になります。
それは、生活(生き方)の変化と、それに続く慈しみのわざの中に現れるこたえです。
「愛」によって迎え入れられた人は、兄弟を迎え入れずにはいられません。
「愛」に自分自身を委ねた人は、苦悩する人々を慰めずにはいられません。
神によって赦された人は、心から兄弟たちを赦さずにはいられません。
***
私たちが、決して神の「愛」に完全に答えることは出来ないことは真実です。
造り主と、造られた者との間の埋めることの出来ない違いのために。
しかしまた、神が私たちに、そのような不可能な対応(つり合い)を生きるための、
可能な愛を示していることも真実です。それは兄弟への愛です。
神の愛への真の対応の場は、兄弟への愛です:
私たちは、兄弟を愛しながら、私たち自身に、世界に、神に、
真に神を愛していることを示します。
そして、つねに不十分な方法で、神のいつくしみに相応するのです。
良い聴罪司祭は、つねに、神への愛の優先性と並んで、
神への愛を鍛えるための日々の運動場として、隣人への愛が不可欠であることを示します。
再び罪を犯さないという現実的な覚悟は、
「愛」に答えたいという意志のしるし(現れ)です。
そしてひじょうにしばしば、人々は、そして私たち自身も、
約束したのに、罪を犯し、もう一度、そしてまた…戻ることを恥ずかしく思います。
私は、あるアルゼンチンの教区司祭の詩を思い起こします。彼は素晴らしい司祭です。
彼は詩人であり、たくさんの本を書きました。
ある、聖母への詩の中で、
聖母に、自分が変わりたいけれど、どのようにしたらよいか分からないので、
守ってくださるよう祈り求めています。
そしてこのように結んでいます:
「この晩、聖母よ、約束は誠実です。
でも念のため、私のために、ドアの外に鍵を置いておいてください」
[Esta tarde, Señora, la promesa es sincera. Por las dudas, no olvide dejar la llave afuera]
彼は、私たちのために、扉を開けるための鍵が必ずあることを知っていました。
なぜなら、鍵を外に残したのは神であるから、神のやさしさであるからです。
このように、赦し(和解)の秘跡をしばしば挙行することが、
痛悔者にとっても、聴罪司祭にとっても、
聖化の道、信仰、譲渡(自己放棄)、変容、
御父の慈しみ深い「愛」へのこたえの学び舎となりますように。
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愛する兄弟たち、
つねに、私たちの一人ひとりが、赦された罪人であることを思い起こしましょう。
もし私たちの一人がこのように感じていないなら、
赦しの秘跡に行かない方がよいし、それを挙行しない方がよいでしょう。
聴罪司祭は、赦された罪人です。
彼は、人々が、彼らもまた秘跡的出会いを通して、
心を捉え、私たちの生活(生き方)を変えた、あの「愛」に出会うことが出来るよう、
彼らに奉仕するよう置かれています。
この意識をもって、私たちはあなた方に勧めます。
あなた方が行っている、またはもうすぐ託されようとしている貴重な任務に
忠実に留まってください。
それは、神の聖なる民の聖化のための、大切な奉仕です。
あなた方のこの和解の任務を、正しく忠実な人、聖ヨセフの力ある保護に委ねてください。
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私はここで、この、[自分も]聴罪司祭を必要としている赦された罪人であるという意識から生まれる宗教的態度を強調したいと思います。
平和のうちに迎え入れること、父性(父の心)をもって迎え入れること。
誰もが、父性の表現が何であるかを知っています:ほほえみ、平和のうちにあるまなざし…
静けさを差し出しながら迎え入れること、それから相手が話すに任せること。
時に、聴罪司祭は、罪をもって進めていくことに、ある種の困難があることに気づきます。
けれど、もしそれが分かったなら、軽率な質問はしないでください。
私は、あることをピアチェンツァ枢機卿から学びました。
彼は私に言いました。
彼は、人々が困難を抱えていて、それが何であるかが分からないでいると感じた時、
すぐにその人たちを止めて言うそうです:「私は理解しました。続けてください」。
それ以上の苦しみを与えないこと、このことにおいてそれ以上「拷問」を与えないこと。
そして、それから、お願いです、質問をしないでください。
私はしばしば自問します。
「このこと、このこと、このことはどうしてか…」と始める聴罪司祭について。
あなたは、何をしようとしているのか、教えてください。
あなたは、自分の頭の中で映画を作っているのですか?
お願いです。
そして、バジリカ(大聖堂)において、告解するのにひじょうに大きな機会があるのに、
残念ながら、国際神学院にいる神学生たち、また若い司祭たちは言っています:
「あのバジリカで、あの[聴罪司祭]、あの[聴罪司祭]以外は行けない。
あの告解場にはいかない方がいい。あの司祭は保安官で、君を拷問にかけるだろうから」。
そのように話しています。
***
慈しみ深いということは、甘やかすことではありません。
それは、兄弟、父、慰める者である、ということです。
「神父さま、私はもうだめです。どうしていいか分かりません…」
「祈りなさい。そして必要な時にはいつでも戻ってきなさい。
ここにあなたは、父、兄弟を見出すでしょう」。
これが[聴罪司祭の]態度です。
お願いです。学校の試験の審判官にならないでください。
「どのように、いつ…」。人々の心の中を詮索しないでください。
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あなた方にこれらの考察のヒントを残しながら、
私はあなた方と、あなた方の痛悔者たちが、
実りのある回心の四旬節を過ごすことを願います。
あなた方を心から祝福します。そしてどうか、私のために祈ってください。
ありがとうございます!
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