Tomas Spidlik枢機卿「日々のみ言葉」より[試訳]四旬節第四木曜日:イエスについての証し

四旬節第四木曜日:イエスについての証し

(ヨハ5・31-57)


「もし、私が自分自身について証しをするなら、私の証しは真実ではない。私について証しする方は別におられる。そして、その方が私について証しする証しは真実であることを、私は知っている」。


現代用語において、用語「証し」は、過去におけるよりも限定されている。私たちにとってそれは法律、裁判所、審判に結びついている。しかし、私たちが知っていることの大部分は、他の人々によって与えられた「証し」から来ている。いつも始めに「証し」をする誰かがいる。例えば、私たちが見たこともない遠くの土地について、私たちは、そこにいて、それを見た人の言葉を信じる。


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イエスが神の御子だと、誰が「証し」することが出来るだろうか。最初に証ししたのは、洗礼者ヨハネである。彼はイエスの洗礼のとき、天が開け、神の霊が鳩のように降って来て、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声を聞いた(マタ3・17)。


教会の中には、霊的な意味の「幻視者(veggente)」や、自分たちの生活(生き方)をもって、驚きをもたらす神の働きを「証し」しているたくさんの人がいたし、今もいるし、これからもいるだろう。


「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ」。


教会の「幻視者たち」の中で特権的な場所を持っているのは、預言者、福音記者、使徒、聖霊のインスピレーションのもとで見たことを書いた人々である。ゆえにキリスト者たちは信仰の最初の源泉として聖書に向く。しかし聖書は、単にさまざまな章をもつ本ではない。それは、異なる時代から来る、異なる著者によって書かれた、異なる内容と様式をもつ多くの書を集めたものである。人間的視点から見ると、聖書の中には多様な意味がある。しかし、霊的・神秘的視点から見ると、その意味はただ一つである:さまざまな預言と約束においてすでに世界の歴史の中に入っている、満ち溢れにおけるキリスト(Cristo nella sua pienezza entra nella storia del mondo già nelle predizioni e nelle promesse)。


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もし、聖書が霊的生活のために真に役立つものとなることを望むなら、私たちは、聖書テキストを読んで、それぞれの書の中に、キリストについて言っていること、世における、また私たち自身の中でのキリストの成長について、何が語られているかを見出すことを学ばなければならない。


「また、私をお遣わしになった父が、私について証しをしてくださる。あなたがたは、父の声をまだ聞いたことがない」。


神の国は、第一に、内的な場である。外的証しの傍らに、内的証しが存在する:それは、聖霊によって照らされた良心(意識)の声、ゆえに神の声である。人間が清ければ清いほど、神の声はより明確である。「sálos, jurodivyje」、つまり「キリストへの熱狂者(pazzo per Cristo)」と呼ばれる聖シメオンは自伝を書いている。彼はある時、聖書を読むのを止めた。そして、聖人の良心(意識)はひじょうに澄み切っていたので、本の助けなしに必要なことはすべて理解した、と弁明している。その種のことは、修道者聖アントニオについても書かれている:「心と本、どちらが先か。心を清めれば、本は必要ではなくなるだろう(Che cosa è venuto prima, la mente o i libri? Purifica quindi la tua mente e non avrai bisogno dei libri!)」。オリゲネスは言っている。それらは聖人たちにとっては善い勧めだが、普通のキリスト者たちは、「どちらの本」も同時に読まなければならない:聖書と、良心(意識)から来るインスピレーション。

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