教皇フランシスコとイスラム教
教導職の三つの礎
Andrea Tornielli氏
(『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙、2021年3月10日)
[試訳]
https://www.osservatoreromano.va/it/news/2021-03/quo-057/tre-cardini-br-di-un-magistero.html
諸宗教対話、特にイスラム教徒の対話に関する
教皇フランシスコの三つの重要な介入を結ぶ赤い糸がある。
それは、三つの基本的な点(ポイント)をもって「ロードマップ(道筋)」を示す
教導職である:
私たちの社会の中の宗教の役割、
真の宗教性の基準、
兄弟として歩み平和を築くための具体的な道。
私たちはそれらを、教皇フランシスコが、
2016年、アゼルバイジャン(Azerbaijan)で、
2017年、エジプトで、
そして今、アブラムの町、カルデア人のウルでの忘れられない集いにおける、
歴史的なイラクへの旅において行った講話の中に見いだす。
***
最初の講話は、アゼルバイジャンのシーア派の人々だけでなく、
その国の他の宗教共同体に向けられたもので、
二番目は主に、エジプトのスンニ派イスラム教徒に向けたもの、
そして三番目は、イスラム教徒が多数を占めるとはいえ、
キリスト教徒だけでなく、古代メソポタミアの宗教の代表者を含む、
より幅広い諸宗教の聴衆に向けたものであった。
フランシスコが提案し実現するのは、
すべてを平均化する(フラットにする)ために、
違いやアイデンティティを忘れるアプローチではない。
それはむしろ、
憎しみや分裂、テロや差別を助長するような宗教の道具化を拒否するために、
自分の宗教的アイデンティティに忠実であるようにという呼びかけであり、
同時に、より世俗化が進む社会において、
私たちが神を必要としていることを証しするようにという呼びかけである。
***
バクーでは、コーカサスのイスラム教指導者や他の宗教団体の代表者を前に、
フランシスコは宗教の「偉大な任務」を想起した。
すなわち「人生の意味を求める人々に同伴し(寄り添い)、
人間の限られた能力や、この世の富が、
決して絶対的なものになってはならないことを理解するよう助ける」こと。
カイロで、フランシスコは、
アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師によって推進された
平和のための国際会議で演説し、
シナイ山が、次のことを思い起こさせると述べた:
「地上での真の契約は、天[神]を考慮に入れなければ不可能であること、
人類は、視野(地平線)から神を除外しながら、
平和のうちに出会おうと決意することは出来ないこと、
また、神を独り占めするために山に登ることは出来ないこと」。
一方で「宗教を、人間と社会の構成要素として認識することなく」
私的領域の中だけに追いやる傾向があり、
他方で、宗教的領域と政治的領域の間の不適切な混合があるという、
教皇が「危険な逆説(パラドックス)」と呼んでいるものを前にした
ひじょうに今日的な(タイムリーな)メッセージ。
***
3月6日土曜日、ウルで、フランシスコは、
もし人間が「神を追い出すなら、結局は地上のものを礼拝するようになる」ことを思い起こし、「目を天に」上げるよう招き、
神を礼拝し、隣人を愛することを「真の宗教性」として定義した。
カイロで教皇は、宗教の指導者たちが
「『絶対者』への真の開放ではなく、利己主義の絶対化に訴え、
見せかけの神聖さを装う暴力の仮面をはぎ」、
「人間の尊厳と人権に対する侵害を告発し、
宗教の名のもとのあらゆる形態の憎悪を正当化しようとする試みを明るみに出し、
それらを、神の偶像礼拝的偽造として非難するよう」求められていると説明した。
***
バクーで教皇は、諸宗教の任務として
「善を見分け、わざ、祈り、内面的な努力をもってそれを実践する」よう
助けることであることを強調し、
「忍耐、理解、謙虚で具体的なステップから成る出会いと平和の文化を構築するよう
招かれている」と述べた。
アゼルバイジャンでペトロの後継者は言った。
紛争の時代において、諸宗教が「平和の夜明け、死の荒廃の中での再生の種、
倦むことなく響く対話の反響、
公式な調停の試みが効果を発揮しないようなところにも到達する
出会いと和解の道でなければならない」。
エジプトでは、
「いかなる暴力的な扇動も平和を保障しない」こと、
「紛争を防ぎ、平和を構築するためは、
過激主義が最も根付きやすい、貧困と搾取の状況を取りのぞくよう
力を注ぐことが基本である」と説明した。
これらの言葉は、ウルでの講話においても反映した。
「分かち合いと受け入れがなければ、
最も弱い者からすべての人のための公平と促進を保証する正義がなければ、
平和はあり得ない。
民が、他の民に手を差し伸べることがなければ、平和はない」。
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ゆえに、教皇の三つの講話において、
消費主義と神聖なるものの拒絶が蔓延し、
信仰を私的領域に追いやる傾向がある世における、
今日、宗教性がもっている役割が示された。
しかし、とフランシスコは説明する、
神への礼拝を、兄弟姉妹たちへの愛から決して切り離さない、
真の宗教性が必要である。
最後に教皇は、諸宗教が、私たちの社会の善に貢献する方法を示している。
平和のための尽力、
最後におかれる人、貧しい人、無防備な人の問題と具体的な必要に答えるための
尽力の必要を呼び起こしながら。
それは、違いを超えて、それぞれのアイデンティティを尊重しながら、
平和と正義の具体的な手職人になるために、
「すべての兄弟」が並んで歩こうという提案である。
フランシスコは、この道の一つの例として、
バグダッドの教会を守るために、
若いイスラム教徒たちがキリスト教の兄弟たちを助けたことを思い起こす。
もう一つの例は、ウルでの、サービア・マンダ教のイラン人女性、
Rafah Hussein Baherさんの証言である。
彼女は証言の中で、
イスラム教徒の隣人を救うために命を落とした、
バスラのサービア・マンダ教信徒の男性、Najayの犠牲を思い起こすことを望んだ。
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