Sr.ルカの独り言:(2021年3月23日)十字架:地面の中に落ちて死ぬ麦の粒
~教皇フランシスコ、四旬節第五主日の正午の祈りから~
教皇フランシスコは、四旬節第五主日の福音(ヨハネ12章20―33節)、
イエスを「見たいと望んで来た」ギリシャ人たちのエピソードについて語りながら、
イエスの「答えになっていない答え」について注意を呼び起こしています。
そう言われてみれば、ここで証しされている質疑応答は、全く人間の理屈(ロジック)に沿っていません。まさにヨハネ福音書の特徴である、人間の視線と、神の視線の違い、その違いを埋める「人となった神」イエスの言葉です。
ギリシャ人たち(ユダヤ教への改宗者、またはユダヤ教に関心をもっていた異邦人だったでしょう)は、「イエスにお目にかかりたい」と使徒フィリポに頼みます。フィリポはアンデレと共に、それをイエスに話します。
そうであるなら、イエスの答えは、普通は(私たちの常識では)、それなら会いましょう、彼らを連れて来なさい…となるところです。
しかし福音は証しします。
「イエスはお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命にいたる。…』」(ヨハ12・23-25)。
この答えは全く人間的な論理に従っていません。教皇は言います。
「これらの言葉は、ギリシャ人たちの質問に答えていないように見えます。
実際は、それをさらに超えています」。
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イエスは何を言おうとしていたのでしょうか。
ギリシャ人たちがイエスを「見たい」と言って来ました。福音記者ヨハネがよく使い、ここでの使っているギリシャ語動詞「見る」は、単に目に入るという意味ではありません。「見て知ろうとする、極める」という主体的な動きが含まれます。ギリシャ人たちは「イエスを知りたい」という望みをもっています。
その人々にイエスは「一粒の麦が地に落ちて死ねば豊かな実を結ぶ」と答えています。
イエスは、ご自分が「地に落ちて死ぬ麦の粒」であり、それを見なさい、と言うのです。
教皇は言います。
「実際、イエスは、自分を探し求めようとするすべての人にとって、ご自分が、豊かな実りを結ぶために死ぬ準備が出来ている隠れた種であることを明らかにします。こう言っているかのように:もしあなた方が私を知りたいなら、私を理解したいなら、地面の中で死ぬ麦の粒を見なさい、つまり、十字架を見なさい」。
イエスはご自分を、「豊かな実り」のために―ここでのギリシャ人たちに象徴されているすべての人に永遠の命を与えるために―死のうとしている麦粒である、と明らかにし、それはつまり十字架を示している、と教皇は言います。
そして今日、人々が私たちのところに来て「イエスを見たい、知りたい」と言ったら、私たちは彼らに、「地に落ちて死ぬ一粒の麦」、十字架(十字架に架けられたイエス)を見せなければならない、と。そしてその十字架の「しるし」が、私たち自身の福音的生き方と一貫していなければならない、と述べています。
「何世紀にもわたってキリスト者の並外れた象徴となっている十字架のしるしを思い浮かべます。今日、誰かが―もしかしたらキリスト教があまり知られていない国や文化から来て―『キリストを見る』ことを望んだら、その人は先ず何を見るでしょうか。彼が出会う最も一般的なしるしは何でしょうか。十字架像、十字架です。教会の中に、キリスト者の家の中に、または自分の身に付けて。大切なのは、そのしるしが福音と一致していることです:十字架は、愛、奉仕、惜しみない自己贈与を表現せずにはいられません。このようにして初めて、十字架は真の『命の木』、豊かな命の木となるのです」。
十字架のしるしが内包する、私たちが生きるべき福音的生活とは何でしょうか。それは、教皇フランシスコがあらゆる機会に繰り返す、「自分を賜物として与える」生き方、「神のスタイル(様式)」―近しさ、慈しみ、やさしさ(vicinanza, compassione, tenerezza)―における「仕える」生き方です。
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教皇フランシスコの結びの言葉を聞きましょう。
「今日でもたくさんの人々が、しばしば口に出すことなく、暗黙のうちに、『イエスを見たい』、イエスと出会いたい、イエスを知りたいと思っています。ここから、私たちキリスト者、私たちの共同体の大きな責任を理解することができます。私たちもまた、生き方の証しをもって答えなければなりません:奉仕において自らを与える生き方、神のスタイル(近しさ、慈しみ、やさしさ)を自らのものとした生き方」。
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教会の伝統は、私たちの「自らを与える生き方」は、イエスの「自らを与える生き方」の中に初めて真の意味と力を見出す、と教えています。つまり、私たちの「自己贈与」が、イエスの「自己贈与」の中にあるのでなければ、それはいつか空しい自己満足か不毛な失敗に終わってしまいます。
イエスは「子」として、「父」である神に、自己のすべてを明け渡しました。それが十字架の死です。私たちは、イエスの「内」に、父である神の真の「子」となりました。聖霊の注ぎを受けて、洗礼において。ですから私たちは、御子であるイエスの内に、神の「子」として御父に「自分を賜物として与える」ことが出来るのです。
この、三位一体の神との交わりのダイナミズムの中で初めて、「地に落ちて死ぬ種」は実を結びます。乾ききった土地の中でさえ、聖霊の露を受けて、芽を出すことが出来るのです。
非難や中傷をもってではなく、無償の愛で赦された者として、つねに慈しみと忍耐をもって。
教皇は結んでいます。
「それは、種を蒔くことです。飛び去る言葉をもってではなく、具体的で単純、勇気ある模範をもって。理論的な非難をもってではなく、愛のジェスチャーをもって。
その時、主は、ご自分の恵みで私たちに実りを結ばせてくださいます。たとえ、無理解、困難、迫害のため、または聖職者至上主義的な律法主義、道徳主義のために、土地が乾ききっている(不毛な)ときでも。
まさに、試練と孤独のただ中、種が死ぬとき、その時こそ、命は芽を出します。自分の「時」に成熟した実を結ぶために。
この死と命の交錯の中で、私たちは喜びと愛の真の実りを経験することが出来ます。繰り返します、愛はつねに、神のスタイルにおいて自分を与えることです:近しさ、慈しみ、やさしさ。
おとめマリアが私たちを助けてくださいますように。私たちがイエスに従い、奉仕の道を力強く喜びに満ちて歩めるように。キリストの愛が私たちのあらゆる態度の中に輝き出で、ますます私たちの日々の生活のスタイルとなるように」。
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