Tomas Spidlik枢機卿の、典礼暦の中の福音の黙想から[試訳]

[参照写真:「陰府降り」フレスコ画、イスタンブール、カーリエ博物館]


四旬節第五火曜日:人の子が上げられるとき

(ヨハ8・21-30)


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「あなた方は下から出た者だが、私は上から来た者である」


地球は丸いので、下と上というのは相対的な概念である。

それは先ず象徴的意味をもっている。


私たちは、すべて美しいものを高いものとして感じ、それを「上に(天に)」置き、その反対に、悪、醜いもの、罪を「下に」置く。あらゆる民が神々の座を上に(オリュンポスの山や天に)置くのは自然である。


イスラエルの神はさらに上、天の天、最上のレベル、ほとんど別の天、選ばれた民にふさわしい神の概念である。YHWHはプラトンの諸概念の世界より上である:概念は理解し得るものであり、YHWHは、愛の神秘を実現しながら、造られたあらゆる知性を超える。神は「上」から降りて「下」の人々のところに来る。人々がもはや雲の中に自分たちの理想を探さなくてもよいように。今、人々は理想を地上に見出す。


「あなた方は人の子を上げたときに…」


この神の慈しみのわざに対する、人々の答えは何だったか。


優れた者と見なされる人は人々から上げられ、人々はその人の記念碑や像を建てる。


神の御子であるキリストもまた、上げられた。しかし異なる方法で:処刑の木の上に、十字架の上に。「上」にいた方が、「下」の最も低い段階まで降りた。死の世界、無の世界まで。


***

最初はキリスト教の聖堂だった、コンスタンティノポリスのモスク(イスラム教寺院)の中に、東方教会のイコノグラフィーの中で頻繁なテーマ、「陰府降り」を描いたモザイクが発見された。


この画の中で、片方の足で立ち、もう一方の足で上っているキリストが描かれている。最も降下した時、方向の変化が起こり、それは天への上昇で頂点に達する。


ハイデッガーは、同じようなことが人間にも起こると書いている:深淵の中に滑り落ち、底に着くまで悔い改めない。しかしその時、上昇を始めることが出来る。


「…『私はある』ということが分かるだろう」


この、コンスタンティノポリスのモザイクの中には、もう一つの場面がある。


キリストは、アダムとエバの手をつかんで上り始める。二人がご自分と一緒に上るように、ほとんど彼らをもぎ取るかのように。


アダムとエバは人類を象徴(代表)している。


楽園では、神が彼らのところに降りて来た時、彼らは神の存在の特権を歓迎していることを示さなかった:彼らは災難(不幸)から救われる必要をもって初めて、神の愛を理解するだろう。


***

教会の教父たちは、罪もまた「摂理的」であると見なすかどうかを討論した:放蕩息子は自分が落下して初めて父の愛を知った。人類(人間)は、キリストを十字架に付けて初めて、キリストに心を向けた(回心した)。


神が、ご自分の愛を人間が完全に知るために、人間を罪に導くと明言することは出来ない。


私たちは自分の意志で罪を犯すので、神は、「下」にいる者を「上」に引き上げるために、

この機会を利用すると言うことは出来るだろう。その時、何も私たちを神の愛から引き離すことは出来ないだろう。もし私たちが、モザイクの中のアダムとエバのように、神の手をしっかりとつかむなら。

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