Tomas Spidlik枢機卿 枝の主日(B):エルサレムへの荘厳な入場

Tomáš Špidlík, Il Vangelo di tutto l’anno, Lipa, Roma 2020

[一部試訳]

[…]メシアはご自分の町に入ります。

地上における神の国の即位を実現するために。


この神秘は、イコンでもよく表現されています。

ろばに乗ったイエスが、町の入り口で止まっているところが強調されています。入り口はファリサイ派や律法学者の人々、つまり神の国に入らず、他の人が入ることも妨害する人々(ルカ11・52参照)によって遮断されています。しかし木々の上には、枝を集めて歌っている子供たちが見られます。


驚くことに、これらの子供たちは大人の顔をもっています。オリゲネスの表現によると、彼らは「哲学者である子供たち」です。なぜなら彼らは、救いの神秘を理解するのに、ファリサイ派や律法学者たちよりも成熟した心(mente)をもっているから。実際、ファリサイ派や律法学者たちは、時のしるしを理解しませんでした。


***

とは言っても、この神秘的なしるしを理解することは簡単ではありません。


メシアは、ご自分の王国を手に入れるために、ご自分の町に入ります。そして典礼においてすぐ後に、受難が朗読されます。主は死刑の宣告を受け、十字架に架けられるために、ご自分の町に入ります。ファリサイ派や律法学者たちは、ただ一つの結論を引き出します:イエスは、預言者たちによって預言され、すべての世代が待っていたメシアではない、と。イエスは権力を手に入れるためではなく、排斥されるために町に入ります。使徒たちが、このように相反する二つの現実が両立することを理解するためには、堅固な信仰と聖霊の照らしが必要でした。実際イエスは、ご自分の王国を手に入れます。しかし、それをするための手段は、ご自分の死と復活でした。


この意味で、純粋で単純な信仰の象徴である子供たちは、ダビデの子に荘厳なホサナを歌っているのです。枝の主日の典礼は、これらの無垢な者たちの信仰に鼓舞されることを望んでいます:「見ないで信じる者は幸いである」(ヨハ20・29)。[…]

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