「聖週間」(アレクサンドル・シュメーマン)
Alexander Schmemann – Olivier Clément, Il mistero pasquale, Lipa, Roma 2003.
枝の主日(受難の主日)
[試訳]
典礼の観点から見ると、「ラザロの土曜日」は
主のエルサレム入場を祝う「枝の主日」の「前の祝日」(pre-festa)のようである。
これらの二つの祝日は共通のテーマをもっている:凱旋と勝利。
*東方正教会では、「枝の主日」の前日に「ラザロの土曜日」が祝われる。
土曜日は、死である「敵」を明らかにし、
日曜日は、神の国の凱旋としての勝利、
世の側からの、その唯一の王、イエス・キリストの受容を告げる。
聖なる町への荘厳な入場は、イエスの生涯の中で、目に見える唯一の凱旋であった。
この日まで、イエスは、ご自分に栄光を与えようとするあらゆる試みを自発的に拒んだ。
「過越(Pasqua)」の六日前に初めて、
この出来事を自発的に受け入れただけでなく、それを促した。
預言者ゼカリヤが言ったことを文字通り成就しながら:
「あなたの王があなたのところに来る[…]ろばに乗って」(ゼカ9・9)。
イエスはご自分が、メシア、イスラエルの王、あがない主として知られ、
歓呼して迎えられるのを望んでいることを明らかに示した。
実際、福音の叙述は、これらのメシア的すべての特徴を強調している:
棕櫚、ホサナの賛歌、ダビデの子、イスラエルの王としてのイエスへの称賛。
イスラエルの歴史はその目的に達する:それが、この出来事の意味である。
実際、イスラエルの歴史の意味は、神の国、メシアの到来を告げ、準備することだった。
今日、それは成就した。王が自分の聖なる町に入り、
彼において、すべての預言、イスラエルのすべての待望がその完成を見出すから。
彼はご自分の国を発足させた(Egli inaugura il suo regno)。
枝の主日の典礼は、この出来事を解説している。
手に棕櫚の枝をもって、私たちはエルサレムの人々と一体化し、
彼らと共に、ホサナを歌いながら柔和な王をたたえる。
しかし、このことすべては、今日、私たちにとって、どのような意味があるのか。
***
私たちは何よりも先ず、キリストが私たちの王、私たちの救い主であると宣言する。
ひじょうにしばしば、私たちは、神の国がすでに始まっていることを忘れている。
ひじょうにしばしば、私たちは、洗礼の日、その[神の]国の住人とされ、
あらゆることの上に、この国への忠実さを置くと約束したことを忘れている。
私たちは、常に思い起こすべきである。
ある時期、キリストが地上において、私たちの世において、真に「王」であったことを。
ただある時期、そして一つの町の中だけで。
しかし、私たちがラザロの中にすべての人間のイメージを認めたように、
私たちはこの町の中に、世界の、そして全被造界の、神秘的中心を見ることが出来る。
それが、「エルサレム」の聖書的意味である。
救いの歴史、あがないの歴史全体の焦点、神の到来の、聖なる町。
ゆえに、エルサレムに発足された王国は、すべての人々、全被造界…を含む。
ある時期―しかしこれらの時は決定的である:それはイエスの時、
神の約束、神の望みの、神によってなされた成就の時である。
この時は、聖書の中で啓示された、準備のプロセス全体の終着点、
神が人間のためにしたすべてのことの成就である。
そしてこのようにして、キリストの地上での凱旋の、この短い時は、永遠の意味を得る。
それは、私たちの時間、あらゆる時の中に、神の国の現実を導き入れる。
神の国を、時間に意味を与えるものとし、その最終目的としながら。
この時から出発して、神の国は世に明らかにされ、
その現存が、人間の歴史を判断し(裁き)変える(変容する)。
典礼祭儀の最も荘厳な時において、私たちが司祭の手から棕櫚を受け取る時、
私たちは、私たちの王への誓いを新たにし、
その王国を、私たちの命(人生)の最終目的、また内容として宣言する。
私たちは宣言する。
私たちの人生の中で、また世の中で、すべてがキリストに属していることを。
何も、唯一無二の主から逃れることが出来ないことを。
私たちの存在のどんな分野も、主の力、主の救い、そのあがないのわざから
見逃される(忘れられる)ことがないことを。
最後に私たちは、人間の歴史に関する、
教会の普遍的で全面的な責任を宣言し、教会の普遍的使命を明言する。
***
しかし私たちは知っている。
あの時、ユダヤ人たちが称賛していた王、そして今日、私たちが称賛している王は、
ゴルゴダに向かって、十字架と墓に向かって進んでいることを。
私たちは知っている。
この短い凱旋が、彼のいけにえ(自分自身を献げること:sacrificio)の
プロローグ(序幕)以外の何ものでもないことを。
ゆえに、私たちの手の中の棕櫚は、
主に従って、いけにえの歩みを進む私たちの、覚悟と意志を意味している。
神の国に導く唯一の王道としての、私たちのいけにえの受容、自己放棄を意味している。
***
最後に、これらの棕櫚、この儀式は、
キリストの最終的な勝利への私たちの信仰を宣言している。
キリストの王国はまだ隠されていて、世はそれを無視している。
世は、あたかも、決定的な出来事が起こらなかったかのように、
あたかも、神が十字架上で死ななかったかのように、
あたかも、神において人間が、死者の内から復活させられなかったかのように
過ごしている。
しかし私たちキリスト者は、この王国の到来を信じている。
その国において、神がすべてにおいてすべてになり、
キリストが唯一の王となることを信じている。
***
典礼祭儀において、私たちは過去の出来事を思い起こす。
しかし、典礼のすべての意味と効力は、まさに記憶を現実に変えることにある。
枝の主日において扱われている現実は、
私たちが神の国に巻き込まれていること、それに対する私たちの責任である。
キリストは、もう二度とエルサレムに入らない:彼はそれをただ一度行った。
キリストは「象徴(シンボル)」を必要としないし、
キリストが十字架上で死んだのは、
私たちが彼の命を永遠に「象徴化」することが出来るからではないことは確かである。
キリストが私たちに望んでいるのは、
ご自分が私たちにもたらした王国の真の受容である。
そしてもし私たちが
毎年、枝の主日に新たにする誓いに、完全に忠実である覚悟が出来ていないなら、
神の国を、私たちの人生全体の尺度ととすることを決意していないなら、
それなら私たちの祭儀は意味がなく、単に棕櫚を教会から家に運ぶだけとなる。
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