Tomas Spidlik枢機卿「日々のみ言葉」より[試訳]聖火曜日:ユダの裏切りの予告(ヨハ13・21-33.36-38)
聖火曜日:ユダの裏切りの予告(ヨハ13・21-33.36-38)
あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている
ユダの裏切りの問題については多くの議論がなされている。
イエスの死にとって、ユダは決定的だったのか?人々はすでにイエスを、神殿で教えていたときに捕えようとしたが、イエスはつねに逃れてきた。まだ彼の時は来ていなかったから。そしてまさにその時、捕らえられるにまかせた。
***
それらは無益な議論である。私たちは神の摂理の計画を理解しようと努めよう。それを正そうとするのではなく。
なぜイエスはこの道を選んだのか。イエスはご自分の受難において、理解されず、迫害される時に人々が苦しむすべてのことを、体験することを望んだ。すべての人に見捨てられ、より身近にいた人から裏切られるのは、計り知れない苦悩である。イエスはこのことをも経験することを望んだ。それを聖化するために。イエスは、人々を絶望へと運ぶすべてのことを、自分自身で通過することを望んだ。
私がパン切れを浸して与えるのがその人だ
ユダが最後の晩餐の時、パンとぶどう酒の分配までいたのか、その前に出て行ったのかについても議論される。ルーマニアの修道院の画の中で、しばしば、聖なるコムニオ(聖体拝領)としての最後の晩餐が、離れて外で吐き出しているユダのイメージと共に描かれている。ユダはキリストの体を受け取ったが、それを自分の中に保つことは出来なかった。それが彼を燃やしたから。
これらの画は、福音外典の伝統を反映しているが、真の考察を表現している。聖なるコムニオにおいて、キリストとの接触を通して、私たちはキリストと一体化し、永遠の命の確信を得る。この絆は、裏切りをもって暴力的に砕かれる。吐き出す者は、彼にいのちを与えるものを拒否する。キリストを裏切ることは、第一に、自分自身を裏切ることを意味する。そしてユダは最後には自分の命を絶つ。
しようとしていることを、今すぐするがよい
イエス自身、ユダを裏切りへとそそのかしたのか?彼を引き留めることは出来なかったのか、彼をどなり、分からせることは出来なかったのか?それらは無益な質問である。私たちは人の心の中を読むことは出来ず、神の摂理の計画を読むことはなおさら出来ない。
しかし私たちは、悪についての問題を考えずにはいられない。なぜ神は彼を阻止しなかったのか、なぜ罪を犯そうとしている人を止めないのか?神は人の心の中をすべて読むことが出来るのに。
私たちは少しの答えしか持っていない。そのうちの二つは本質的である。神は、悪からより大きい善が生じないなら、悪を許さないだろう。ユダの裏切りは、全世界の救いの中心であるキリストの受難のモザイクの一部である。
罪を犯したユダその人は?神はあらゆる個々の決定―善のためでも悪のためでも―において人間の自由を尊重する。それはあんまりだろうか?私たち自身、悪から生まれる肯定的なことを見ることが出来る。自由に悪を選ぶ人は、自由に善に戻ることが出来る。そして自分の罪を痛悔することが出来る。痛悔もまた、世の救いの本質的な部分である。
0コメント