教皇フランシスコ、教皇庁立メキシコ神学院共同体への講話(2021年3月19日) [試訳]
霊的世俗性は腐敗の入り口
『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙(2021年3月20日付)[試訳]
「お願いです、世俗性に警戒してください。それは腐敗への入り口です」。
これが3月29日、教皇フランシスコが、教皇庁立メキシコ神学院共同体をバチカンのクレメンス・ホール(Sala Clementina)に迎えながら与えた勧告である。同時に、アンリ・ドゥ・リュバック(1896-1991)の「Meditazioni sulla Chiesa(教会についての黙想)」の最後の三頁を読むよう勧めながら。
教皇は、遅れたことを謝った後(スペイン語で「教皇庁はすべてうまく行くようにすばらしいスケジュールを立てますが、教皇が従順ではありません」、そしてさまざまな集いにおいて「するべきことを超えてしまい、熱意をもって話してしまうので」、たまってしまう遅延という「つけをを払うことになります」と説明しながら)、スペイン語で次のように話しました。
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[教皇は、私たちが直面している困難、特にコロナ・パンデミックのための困難のただ中で、
メキシコ、そしてアメリカ大陸全体の福音宣教(福音化)のための主な課題の幾つかについて語りました]
やさしさ、和解、兄弟愛のまなざしを持つこと
現代の問題は、私たち司祭に、主に形造られること(似た者になること)、
主が私たちをみつめる愛のまなざしに形造られることを求めています。
私たちのまなざしを、主のまなざしに合わせることで、
私たちのまなざしは、やさしさ、和解、兄弟愛のまなざしに変えられます。
主を観想することによってのみ、それを達成することが出来ます。
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私はこれら三つの特徴を強調したいと思います。
何よりも先ず、やさしさのまなざしを持つこと。
父である神は、社会を苦悩させている問題―暴力、社会的・経済的不平等、二極化、腐敗、特に最も若い人たちの希望の欠如―を、やさしさのまなざしで見つめています。私たちはそのまなざしを持たなければなりません。
おとめマリアを模範とする必要があります。マリアは母のやさしさをもって、すべての人を区別なく受け入れる神の慈しみ深い愛(l’amore viscerale)を反映しています。
「善き牧者」により深く形造られることは、あらゆる司祭の中に真の慈しみを生じさせます―託された羊に対して、また迷った羊に対して―。
近しさ(vicinanza)、慈しみ(compassione)、やさしさ(tenerezza)。
これが神のスタイル(やり方)です。これが、忠実であるために戦う司祭のスタイルです。
主によって自分自身が形造られることを受け入れて初めて、私たちの司牧的な愛(carità)は強まり、誰も私たちの気遣いと祈りから除外されることがなくなるのです。さらにそれは、私たちが家の中、または事務所、娯楽の中に閉じこもることを防ぎ、人々に会いに行き、立ち止まらないよう促します。聖職者主義に陥らないよう促します。忘れないでください。聖職者主義は退廃(perversione)です。
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二番目に、私たちはまた和解のまなざしを持たなければなりません。
私たちが通過している社会的困難、大きな違い、腐敗は、私たちに求めています。あなた方の国の社会的・宗教的織物を形造っている多様な色の文化の「tilma」の中に、細くなったり切られたりしたさまざまな糸を織り込むことを可能にするまなざしを。特に先住民族のルーツや、特定の民衆的宗教性のために見捨てられている人々を気遣いながら。
私たち司牧者は、社会の中の個人、グループ、文化の間で、すべての人に「神の和解を受け入れる」(二コリ5・20参照)よう提案しながら尊敬に満ちた建設的な関係を再構築するのを助け、正義の回復に専念するよう招かれています。
*tilma(メキシコの伝統衣装):教皇は、グアダルーペの聖母のイメージが奇跡的に現れた、ホアン・ディエゴのマントを暗示している。
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最後に、現代は、私たちに兄弟愛のまなざしを持つよう駆り立てています。
私たちが直面している課題(チャレンジ)は、社会構成や、ソーシャルネットワークや伝達手段によって接続されグルーバル化された現実を抱合するほど膨大なものです。
このため、「僕(しもべ)」であり「牧者」であるキリストと共に、総体と一致のヴィジョンを持つ能力が必要です。それは私たちに、兄弟愛を造り出すよう促し、さまざまな文化や教会共同体の中でのつながりや相互作用の点(ポイント)を明らかにすることを可能にします。
兄弟的交わりと参加を促進するまなざし。善意のすべての人々と共に、私たちの共通の家を尊重し、新しい世界の建築者となるよう信徒たちを励まし導くまなさし。
このように見つめるためには、信仰の光と、神の神秘を観想するために「サンダルを脱ぐ」ことを知っている人の知恵が必要なのは明らかです。そしてこの観点から、時のしるしを読み取ることが出来るのです。
そのような目的のために、継続的な養成の中で、学術的、霊的、人間的、司牧的次元を調和させることが不可欠です。これら四つが調和しなければなりません。
一つのことだけを勉強し、博士号を取っただけで帰るのであれば、時間を無駄にしたことになります。時間と心を失うことになります。私は問いかけます。「あなたの霊的次元、人間的、共同体的次元、使徒的次元はどのようになっていますか。それらは、つねに相互に影響し合う四つの次元です。もし相互に影響し合わないならば、私たちは良くても不自由な体となってしまうでしょう」。
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同時に、私たちは個人的、共同体的不足を自覚する必要があります。また、個人、共同体、神学校の生活において、司祭団、教区共同体の中で修正すべき過失や欠如を自覚する必要があります。
私たちは世俗の誘惑を過小評価しないよう招かれています。世俗の誘惑は私たちを、不十分な個人的知識、自己言及的な態度、消費主義、私たちの責任から逃れる多様な形に導く可能性があります。
ドゥ・リュバック師が彼の本Meditazioni sulla Chiesa(教会についての黙想)を結んでいる最後の三頁は、いつも私の心を打ちます。そこで彼は霊的世俗性について語っています。彼は古代のベネディクト会士のテキストを取って、それを解説し、だいたい次のようなことを言っています:霊的世俗性―それを、司牧的、霊的世俗性、または司祭、修道者、信徒の、霊的に世俗性を生きる方法と言うことが出来るでしょう―、霊的世俗性は、教会の起こり得る悪の中でも最悪のものです。文字通りに。妾のいたローマ法王の時代よりもさらに悪い。この本の最後の三頁を読むよう勧めます。お願いです、世俗性に警戒してください。それは腐敗への入り口です。
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愛する兄弟姉妹たち、私たちのまなざしを、苦しむ「僕」であるキリストから逸らしてはならないことを頭に入れながら、あなた方に心からお願いします。自分たちの地方教会において受け取った信仰のルーツ(根源)を深めることを止めないでください。それらのルーツは、福音のインカルチュレーションの豊かな過程から生まれたもので、その範型(モデル)は、あなた方が神学院の聖堂で崇敬している、グアダルーペの聖母です。
聖母は私たちを、彼女の子イエスの祭司職に参与させながら、イエスの優先的愛を思い起こさせてくれます。神の母、私たちの母であるMorenita(グアダルーペの聖母)に信頼をもって駆け寄り、あなた方に必要なものを願い求めてください。聖母があなた方を、ご自分の影、ご自分の保護のもとに置いていることを知りながら。
聖母から逃げないでください。聖母はあなた方を別の道で待っているでしょう。彼女はその方法を知っています。つねに注意を払っています。
善い人生、率直な人生を歩んでください。ぐずぐずせずに起き上がる罪人の人生、助けを求めることを知っている罪人の人生、車いすに乗っていても歩き続ける罪人の人生を歩んでください。今、あなたの番です。
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おとめマリア、Morenitaに祈ります。また、今年私たちが祝っている、謙虚で静かな奉仕をもってあがないの神秘に参与する模範、ヨセフに祈ります。メキシコのすべての司祭、この教皇庁立メキシコ神学院のすべての司祭を見守ってくださるように。
主があなた方を祝福してくださいますように。
そしてお願いです私のために祈るのを忘れないでください。私は祈りを必要としています。この仕事は決して容易くはないからです。
da L'Osservatore Romano, Anno CLXI n. 72, martedì 30 marzo 2021, p.8.
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