Tomas Spidlik枢機卿「日々のみ言葉」より[試訳] 聖水曜日:銀貨三十枚(マタ26・14-25)
聖水曜日:銀貨三十枚(マタ26・14-25)
あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている
チェコに、福音外典から来たユダについての中世の伝承がある。その中でユダは、悪意のあるずる賢い男で、策略をもって使徒たちの共同体に入り込むことが出来た者として描かれている。現代の小説は、ユダのドラマを別の方法で説明しようとする。ユダは他の使徒たちと変わらない使徒だったが、イエスについて間違った考えをもち、イエスから地上的な贖いだけを希望していた。時がたつにつれ、ユダの中に失望が入り込み、信じるのを止め、必然的に人間的安心を買うことが出来ると錯覚させるもの、つまりお金だけを求めるようになった。降下の道はますます急になり、最後には淵の中に墜落した。
このバージョンはより満足できるが、いずれにしても一つの推測である。福音が私たちに伝えているのは、罪と裏切りだけである。裏切り者たちは常にどこにおいても評判が悪い。私たちは敵に対しては、誰であるか、どのように戦うかを知っている。それに反して、私たちの生活において、心において身近な友人の姿をした敵は、そうではない。裏切り者は、自分を愛する人、自分のために善を行う人を裏切る。
あの男をあなたがたに引き渡せば、幾らくれますか
私たちは、ある本が面白くないとき、それを途中で放棄する。ある音楽が好きでない場合、聞くのを止める。ある人が退屈なとき、その人からすぐに離れる。しかし家庭や家は、他に代わるものを見つけることなしに放棄することは出来ない。
キリスト者は神の家族、キリストの国に属している。この絆を壊すことを決心したら、必然的にそれに代わる何かを探さなければならない。神の国に属しているということは、すべてのことの上に善と真理を重んじ、神と人々に忠実であることを意味する。罪をもって、このことすべてを放棄する決心をした人は、自分の心を築き上げる新しい諸価値―偽りの偶像たちのための祭壇のように―を探す。
偶像礼拝者たちは、これらの新しい価値を擁護する狂信的な態度によって見分けることが出来る:過激さは道徳的な不安を裏付けるものである。偽りの金で払う人は、その金が本物であると証明することを望むからだ。多くの人が、キリストの諸価値とは異なる価値を擁護することにおける熱意に、私たちは驚くべきではない。
彼らは銀貨三十枚を払った
お金は、人類の最も重要な発見の一つである。人々の間の交換を秩序正しくし、多くの利益をもたらすことも出来る。しかしキリスト者は、永遠のいのちをも信じている。地上の富への行き過ぎた執着は、将来のいのちへの注意を取り除いてしまうことを知っている。お金はこの執着を駆り立てる。お金は快適さを与え、人はお金で、今日と明日のためにたくさんのものを買うことが出来る。そのとき、人々の間の愛の交流の手段である代わりに、お金は孤独、利己主義、神への無関心へと導くということが起こる。ある事業家―彼は良い人でもあった―は、このように言っていた:「お金を扱うとき、私はいつも祈ろうと努力します。この富が、神の前での裁きを支払う真の富を、容易く忘れさせることを知っているからです」。
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