ユダを抱擁するキリスト
『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙の第一面に、死んだユダを抱擁する、十字架に架けられたキリストの画が掲載されました。
これは、フランスのヴェズレー(Vézelay)の教会の柱頭にある、「最後の迷える羊として、死んでいるユダを肩にかついでいる善い羊飼いイエス」の姿についての、教皇フランシスコの黙想を読み、ある信徒が画にして教皇に贈ったものです。
裏切る者ユダの「深淵」に、主イエスのいつくしみの「深淵」が対応している、と
『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙編集長、アンドレア・モンダ氏は
2021年4月1日付の同紙に書いています。以下、彼の記事の試訳です。
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聖木曜日 ユダと、いつくしみのつまずき(2021年4月1日)(Andrea Monda氏)
今日、聖木曜日をもって、聖なる過越の三日間が始まる。教会は主の受難・死・復活を祝う、典礼暦の中心的日々である。一般的に「キリスト教」(cristianesimo)という用語で示されるすべてのことの源泉は、これらの三日間の出来事の中に見出される。四つの福音書すべて、また新約聖書の最も古代のテキスト、つまり聖パウロのいくつかの書簡が、この三日間のことを語っているのは偶然ではない。むしろ、福音自身が、まさに過越の出来事から出発して、記憶の「テープを巻き戻す」かのように「逆に」書かれている。「あらゆる真理」(ヨハ16・13)に導く聖霊のインスピレーションのおかげで。
今日から数日間、『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙では、イエスの地上での生活の最後のときを表す劇的な一連の出来事から浮かび上がる、何人かの登場人物に焦点を当てて、福音書の叙述をより近くから追っていく。四つの福音書の頁を埋める人物はたくさんいる。それはイエスが生涯の最後の瞬間まで、十字架の上でも、真に人々に会い続けているからであり、その選択は簡単ではない。
今日のための選択は、ユダの姿の上に下った。福音書の中で最も悲劇的で不穏な人物だ。マタイの福音によって証しされている言葉は、私たちを震え上がらせる:「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」(マタ26・24)。この使徒の運命はあまりにも謎めいていて衝撃的なので、たくさんの芸術家がペンや筆をもって、その深淵の中に可能なかすかな光を求めて、彼を描くことに専念してきた。深淵のようなユダの姿には、しかし、もう一つの「深淵」が対応している。私たちの主のいつくしみ(あわれみ)の深淵。あのいつくしみ。おそらくユダが自分自身を死に追いやることで、会うことを望まなかったいつくしみ。
同紙の中で、ユダが作家たちを魅了してきたことを示す多くの文学作品の中から、幾つかの手がかりを読者に提供する。この「輝く深淵」―それは神のいつくしみ(あわれみ)である―に光を当てるために。私たちはまた、二つのテキストを掲載することにした。最初のテキストは、1958年4月3日、聖木曜日のPrimo Mazzolari神父の「私たちの兄弟ユダ」についての説教。二番目の「テキスト」は、目をみはる表現力をもった画で、第一面で見ることが出来る。この画は、2018年に出版されたQuando pregate dite Padre Nostro(祈る時、私たちの父よ、と言いなさい)に集められた、教皇フランシスコの「黙想の実り」である。その中で教皇は、フランスのヴェズレー(Vézelay)の教会の柱頭を引用しながら、ユダについて、神のいつくしみについて語っている。教皇はその柱頭の写真を、彼個人の書斎の机の後ろに架けていた
あるフランスのカトリック信徒が、これらの黙想を読み、子供のころからこの柱頭―それは最後の迷える羊として死んでいるユダを肩にかついでいる善い羊飼いイエスを表現している―に印象づけられていたことから、この画を描き、教皇に贈呈しようと決心した。その時から、教皇の机の後ろには、ヴェズレー(Vézelay)の写真の横に、今日の一面に掲載されている画がある。
この場面は、信徒にとってまさに真実であるがゆえに強力で、解説の言葉を必要としない:ユダを、彼が自分で命を絶った木から外した後、抱擁する、十字架に架けられたキリスト。裏切りのしるしであった抱擁に対比させるかのように聞こえる抱擁:それは、友人の抱擁であり、友人という言葉を、イエスはまさにその瞬間、ユダのためだけに使う。これが、パウロの、コリントの信徒たちへの言葉の中で見出し得る、信仰の中心核となるものだ:「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人にはおろかなもの」(一コリ1・23)。今日もまた、赦すよりも断罪することに慣れている世において、死んで復活したイエスのいつくしみはつまずきの石である(この裏切りの数時間後には、ピラトと十字架刑を求める群衆の番が来ることを、明日の新聞で目にすることになるだろう)。
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