Sr.ルカの独り言:復活アラカルト(その3):いつくみを受けた者(2021年4月13日)

✤神のあがないの「無償性」(教皇フランシスコ)


教皇フランシスコは、主によるあがないのわざの「無償性」を強調すします。

2021年4月11日、復活節第二主日「いつくしみの主日」のミサ説教で

私たちは、

「いつくしまれた者(いつくしみを受けた者)(misericordiati)」であるから、

「いつくしむ者(いつくしみを運ぶ者)(misericordiosi)」とならなければならない、

と繰り返します。


私たちは、徹底的に「いつくしみを受けた者」であるからこそ、

徹底的に「いつくしみを運ぶ者」となることが出来るのです。


私たちは、徹底的に赦され、和解された者であるからこそ、

徹底的に、赦し、和解、平和の道を、忍耐強く歩むことが出来るのです。


先ず私たち自身が

徹底的に、根源的に「いつくしまれた者(いつくしみを受けた者)」であるから。

いつでも神は、私たちに先行します。


このことを忘れるとき、私たちの力を超える赦し、和解、平和の歩みは

不可能となるばかりでなく、私たち自身の精神を壊すものにさえなってしまうのでしょう。


***

徹底的に「いつくしまれた者」であることを知ることが

「いつくしむ者」となるよう招かれているキリスト者の歩みの始まりであり、

いつも戻るべき原点です。


徹底的に「いつくしまれた者」であることを、

特にさらに深く思い巡らすよう与えられているのが、

毎年の「聖なる過越の三日間」でしょう。


この三日間を貫く典礼の中で、私たちは心を開いて、

自分の最も深い淵、暗い闇にまで降る恵みを願うよう招かれているのでしょう。

自分の心の内奥の深淵に降ることは簡単ではないし、

私たちは通常それを、意識的に、または無意識に、避けています。

自分の闇を、人のせい、状況のせいにして、言い訳しながら。


けれどこの「過越の三日間」、私たちは、

まず、私たちの深淵の底の底まで降ってくださったイエス・キリストと共に、

恐れずに、この淵の中に降るよう招かれます。


なぜでしょうか。

その淵の中にこそ、他のところではなく私たちの内奥の暗闇の中にこそ、

主イエス・キリストが、「光」「いのち」として降ってくださったから。

その淵の中でこそ、私たちはキリストと出会い、

キリストのいのちに触れて根源から癒されるのだから。


***

「マリアはどこにいたのか」


2021年の聖なる三日間、

私は、「マリアはどこにいたのか」をずっと思い巡らしていました。

「どこに」とは、物理的な場所、というより、

神のあがないのわざの中での、マリアの存在、位置、使命のことです。


***

マリアほど、自分が徹底的に「いつくしまれた者」「いつくしみを受けた者」であることを

知っていた人間はいないでしょう。


マリアは、聖霊に満たされた方です。

十字架のキリストのわき腹から流れ出た水と血、

命を与える聖霊によって、

存在の根源からあがなわれ、生かされていることを

マリアほど「知って(経験して)」いた方はいないでしょう。


十字架のイエスの言葉、

「婦人(女)よ、見なさい、あなたの子です」(ヨハ19・26)によって、

マリアは、イエスの物理的な母であることから、

普遍的な母として制定されました。


生まれつつある教会の母、キリストに従うすべての人、

あらゆる時代、あらゆる場所の弟子たちの母、

キリスト者を通して神の祝福が届くだろう、すべての人の母となることが、

十字架の下でマリアに託された使命であり、

今も、マリアが天で継続している使命です。


『教会憲章』は述べています。


「恵みの計画におけるマリアの母としてのこの役割は、

お告げのときマリアが忠実にこたえ、

十字架のもとで揺らぐことなく堅持した同意から始まって、

選ばれたすべての者の永遠の完成に至るまで、

絶えることなく続く。


マリアは天に上げられた後も、

この救いをもたらす務めをやめることなく、

かえって数々の執り成しによって、

われわれに永遠の救いのたまものを得させ続ける。


マリアはその母としての愛をもって、

まだ旅を続けている自分の子の兄弟たち、

また、危機や困難の中にある兄弟たちが

幸福な祖国に到達するまで、

彼らを見守る」。(『教会憲章』62項)。


***

それが、徹底的に「いつくしまれた者」としての使命であることを

生まれつつある教会の中で、聖霊に導かれて、

マリアはより深く悟っていくのでしょう。


***

あの「エルサレムの高間」で、使徒たちと共に祈りながら、マリアは黙します。

(使徒1・14参照)。


今、口を開くのは、福音を宣言するのは、

キリストがご自分の権能を与えた使徒ペトロを中心とした使徒たちです。


マリアは「いつくしみの母」として留まります。

使徒たちの母、弟子たちの母、私たちの母。


指さして非難する者ではなく、

罪人を探し求めて傷を癒す、「迎え入れる母」として留まります。


それは、つねに新しく創造する、父である神のいつくしみの反映、

ご自分の命を私たちのために明け渡した御子キリストのいつくしみの反映。

私たちの傷に触れて癒す聖霊のいつくしみの反映です。


三位一体の神のいつくしみは、

存在の根底から「いつくしまれた者」であるナザレのマリアの中で

曇りのない鑑のように輝き出ます。


***

先生を見捨て、裏切り、逃げ去った弟子たちが、

再びあの「高間」、最後の晩餐の場に集まってくる場面に、

私は、「自分の子らをふところに迎え入れる、母であるエルサレム」の具現化であるマリア、

新しいエルサレム、教会の姿であるイエスの母マリアの姿を

思わずにはいられません。


聖書は、逃げ去った弟子たちが、

どのように高間に帰ってきたかについては黙しています。


けれど、教会の伝統は、

旧約・新約聖書を一つの一貫した書として読みながら、

また、「終わりの日」の母エルサレムについてのユダヤ教伝統を紐解きながら、

主の過越の三日間の神秘の中で、

主の花嫁、新しいエルサレムの初穂として、

沈黙の祈りのうちに存在する「母マリア」、「女」であるマリアを観想してきました。


それはもはや、理屈ではありません。

私たちが限りある人間の頭で捉えようとしてもすり抜けてしまう

神の神秘に属します。


神の思いは、私たちの思いをはるかに超えます。


神が私たちに求めているのは、

お告げのときのマリアのように、偉大な過越の神秘の前で驚嘆し、

「はい、私は主のはしためです。

お言葉通り、この身になりますように」という答えを差し出すことなのでしょう。


そのようにして開かれた心の中に、主の知恵が降るのでしょう。


主によってあがなわれた者が、

あがなわれた世界の調和を証しする者となります。

赦された者が、赦す者、神の赦しを運ぶ者となります。

恵みを受けた者が、生き方をもって、神の恵みを輝かせる者となります。


イニシアティブはつねに神です。

神は無償で、私たちを創造し、私たちをあがないました。

かれど、神のあがないのわざへの、私たちの同意なしには、

神でさえも、無理やりに私たちを変えることは出来ません。


神のあがないのわざを受け入れ、

私の存在の最も深い淵に、神のいつくしみが触れるにまかせ、

私の存在の最も暗い闇の中に、神の光が輝くにまかせるとき、

私は少しずつ、少しずつ、変えられていくのでしょう


私が、そうであるものの姿、

神の「かたどり」、神の似姿に(創1・26参照)

変えられていくのでしょう。

私たちの「長子」キリストに、形造られていくのでしょう。



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