Tomáš Špidlík枢機卿の、日々のみ言葉の黙想[試訳]:復活節第三金曜日
復活節第三金曜日:肉を食べ、血を飲む(ヨハ6・52-59)
この人は、どうして自分の肉を与えて食べさせることができようか
たくさんの聖体の奇跡がある。
ホスチアが血を流したり、
キリストの顔が刻印されて現れたり。
聖ヤヌアリウス(聖ジェローナ)の奇跡が毎年実証されること、
凝固した血とともに生きている肉のように見える
ランチャーノの何世紀も前の聖遺物入れのことは誰もが知っている。
科学もまた、それが説明することが出来ない事実であることを認めた。
オルビエト(Orvieto)の司教座聖堂には、
血の付いたコルポラーレ(聖体布)が保管されている。
それは、疑いにさいなまれながらミサを捧げていた
イタリアを訪れたプラハのある司祭に起こった奇跡の聖遺物である。
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しかし、「体」という言葉を、
あたかも私たちの人格の一部、霊魂から切り離されたものであるかのように、
いわゆる過度に身体的意味で理解するのは正しくない。
聖書の中で、「体」という用語は、より広い意味をもっている。
旧約聖書の中で、神はご自分を啓示するとき、目に見えるようになるとき、
世界の中に入るとき、「体をまとう(“assume un corpo”)」。
エウカリスチア(ミサ聖祭)において、
パンとぶどう酒は、キリストの体と血になる。
つまり、キリストは、
祭壇上に、体と魂をもって、ご自分の神性と人性をもって、
真に、丸ごと現存する(realmente e interamente presente)、
私たちの間におられる。
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない
「血を飲む」という表現は強力であり、否定的な反応を生じさせかねない。
血を恐れる人がいる。血を見て気を失う人がいる。
血には何か先祖代々のものがあり、古代の人々は、血には魂が宿ると信じていた。
血の流出とともに、命が消失するように思われたから。
しかし、血は強い結合の象徴であり、実際に家族の関係は血のつながりとして語られる。
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アンチオケの聖イグナチオはこの表現を使っている:
聖体のパン(il pane eucaristico)を食べ、ぶどう酒を飲むことは、
キリストの体と魂の中に入ることを意味する。
現代の著作家たちは、
異なる、分離した事実としての、体と霊魂について語ることを避け、
しばしば、「キリストと同じ血であること、そうなること」
(“essere, divenire dello stesso sangue di Gesù”)という表現を使うことを好む。
実際、聖なる交わり(コムニオ)[聖体拝領]をもって、
私たちは、永遠の命における、キリストの親族となる:
神は私たちの真の父、マリアは私たちの真の母、人々は私たちの兄弟である。
なぜなら、すべての者の中に、同じ血が巡っているから。
これは天から降ってきたパンである
マンナは上から降ってきた、と出エジプトは語っている(出16)。
それは天から降ったパンであった。
それに反して、エウカリスチアの賜物(i doni eucaristici)は、
大地の実り、人間の労働の実りである。
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ここで、創造において起こったことと似たことが起きる。
人間の体は、土の塵で形造られたが(創2・7)、
命は、神ご自身がそれを「吹き入れた(soffia)」。
イエスは、人の子として、ダビデの家系、人類から来るが、
神の子として、天から降った。
エウカリスチア(聖体)は、私たちの大地から来るパンであるが、
その中に現存するキリストは、天から私たちのところに来る。
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典礼書に反映されている古代の伝統によると、
聖櫃の周りには天使たちが表現されている。
聖書によると、天使は神がおられるところ、
地上に天があるところに現れる。
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