Sr.ルカの独り言:主の復活:三位一体の神のわざ(2021年4月23日)

「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、

誰もわたしの所に来ることはできない。

わたしは終わりの日にその人を復活させる」(ヨハ6・44)。


「わたしは天から降って来た、生けるパンである。

このパンを食べる人は永遠に生きる。

しかも、わたしが与えるパンは、

この世に命を与えるためのわたしの肉である」(ヨハ6・51)。


***

私たちのため、私たちの救いのための神のわざは、

イエス・キリストの単独のわざではなく、

三位一体の神のわざである。


すべては、父である神から出発し、

三位一体の神のコムニオ(交わり)の神秘の中で実現する。


***

父である神との交わりの中で初めて、

御子は、私たちのために降り、受肉し、人となり、

十字架上で命を明け渡すことが出来る。


父は、ご自分の意志(み心)を完全に成し遂げた御子を、

死者の中から、新しい命、永遠の命に復活させる。


父との交わりの中で、御子は、

ご自分の霊、命を与える聖霊を、私たちに渡す。


御子の復活の実りである聖霊を受けて、私たちは、

真の「神の子」となり、

御子の命に絶えず養われて、御子のうちに「神の子」として成長する。

御子キリストに似た者として形造られる。


こうして私たちは、すでに地上において、

神の子としての命を受け、父の所に帰る旅を始めている。


***

これは決して、抽象的な話ではない。

ナザレのマリアの胎の中で、神の御子が受肉し、目に見える者となったときから、

イエス・キリストの言葉、しぐさ、まなざし、行いの中に、

神の子の「真の幸い」とはどういうことか、

神の子として生きるとはどういうことか、が目に見えるようになった。


***

イエスは「子」として常に「父」との交わりの中に生き、「父」を示している。

存在をもって、わざをもって、言葉をもって。


***

「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、

誰もわたしの所に来ることはできない。

わたしは終わりの日にその人を復活させる」(ヨハ6・44)。


父は、子が「上げられる」とき、つまり十字架のとき、

すべての人を、私たちを、子を通してご自分のもとに引き寄せる。


「上げられる」とき、十字架のときは、

父と子の最高の、計り知れない「いつくしみ」の現れである。


主である神は、ご自分の民イスラエルに、

ご自分が「いつくしみ深い神」であることを明らかにする。

民は、罪を犯したときでも、いやむしろ、特に罪を犯したときに、

主がいつくしみ深い方であることを経験する。


***

今、十字架のとき、

この世の闇、私たちの中にある闇が一気にあふれ出たとき、

「この世の主人」―悪魔―のとき、

子は、父との交わりの中に生きながら、父の思いを実現する。


闇の中にあっても、いつくしみのしぐさ、まなざし、言葉を

示し続けながら。


イエスの受難の一部始終を見ていた異教のローマ兵が

「まことに、この方は神の子であった」(マコ15・39)と宣言するほどに。


***

子であるキリストは、生まれつつある教会の上に、

ご自分の霊、いつくしみの霊を明け渡した。


「イエスは酸いぶどう酒を受けると仰せになった、『成し遂げられた』。

そして、頭を垂れ、霊をお渡しになった」(ヨハ19・30)。


教会―私たち―は、キリストの霊を受け、

世にキリストを運ぶよう、キリストのいつくしみを運ぶよう派遣される。

教義ではなく、イエス・キリストを運ぶよう、派遣される。


父のいつくしみの現れであるキリストを宿し、世に、人々に運ぶこと。


***

教会は、「キリストの」民、「キリストの」体である。

その意味で、教会は、

自分の力でいつくしみ深く「ならなければならない」というより、

キリストの霊の力によって、

自分が本来そうであるものになっていく、ともいえるだろう。

主はご自分の民を、ご自分のいつくしみの反映として形造ったのだから。


***

ゆえに教会はつねに「開いて」いなければならない。


「キリストの」教会であるのだから、

つねにその源泉に開き、生かされ続けなければならない。

御父が遣わした「天から降って来た、生けるパン」であるキリストによって、

養われ続けなければならない。


教会は、聖霊の力で、聖霊に満たされて、

父が遣わした御子に、日々ますます似た者になっていく。

いつくしみ深い者となっていく。


***

そしてそこに、

地上で、神のいつくしみの反映となるよう呼ばれている教会の

「始まり」「完成」の姿である、マリアがいる。


教会の伝統の中で、マリアは、

神のいつくしみ、神の美しさを映し出す、曇りのない鑑、と呼ばれてきた。


三位一体の交わりの神を、曇りなく反映させるマリアは、

一人きりで孤立しているのではない、

マリアはつねに、教会とともに、教会の交わりの中にいる。


キリストは、一人きりでは存在し得ない。

「頭」であるキリストは、ご自分の「体」、教会と一つである。


そのキリストの神秘に、全存在で巻き込まれたマリアは、

一人きりでは存在し得ない。


ゆえに、マリア「だけ」に向けられた崇敬は、存在し得ない。

それは、キリスト教の崇敬でもない、と教会は教える。


マリアはつねに、キリストに結ばれている。

マリアはつねに、教会に、私たちに結ばれている。


だから東方教会のイコノグラフィーの中で、

天のエルサレムで、私たちのために執り成しているマリアは、

いつも聖人たちと共に描かれているのである。

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