Tomas Spidlik枢機卿『毎日の福音』より試訳 年間22水曜日:悪霊たちに命令する(ルカ4・31-37)
悪霊に憑かれた人
汚れた霊たちは存在するのか?何が彼らの本質、彼らの権力なのか?これらの問いかけへの答えは、段階的である。私たちは悪の反対、つまり善を知らなければ、悪を知ることは出来ない。すべての善がイエス・キリストのペルソナのうちに集中されていることに気づいて初めて、私たちは、悪もまたペルソナ的要素(un elemento personale)であるという現実―「敵」である「サタン(悪魔)」の神秘―を受け入れる。最初、悪魔についての概念はひじょうに漠然としていて、福音もまたそれに関して、当時の民衆信仰の言語を使っている。東方の古代の人々は、世界の中に、たくさんの闇の権力を見ていた。それらは人間を襲い、麻痺させ、病気にさせ、理性を奪い、未知の魔術的力に従属させる、人間の敵である。基本的に、このことすべては聖書に反していない:聖書もまた罪を、あらゆる悪の原因として示している。
病人を奇跡的に癒すイエスは、ご自分を「病気を治す人」として示すことを望まなかった。イエスは、何が私たちの病気の第一原因であるかを示すことを望んだ:それは、世界の中で神のわざを妨害する悪である。
権威と力とをもって悪霊に命令する
たとえ福音が当時の慣習的言語を使って語っているにしても、それは聖書的啓示の典型的なもう一つの要素を強調している。悪は、神々でさえそれに対して無力である悲劇的な力でも、非人格的(impersonale)でもない。悪は邪悪な存在によって引き起こされる。外見的には悪が世界を支配しているように見える。しかしイエスはそうでないことを現わす。邪悪な存在は、神の恵みの前では無力である。
聖人たちが悪霊を少しも怖がっていなかったことは興味深い。聖ヨハネ・ヴィアンネは、ある夜、扉を強く叩く音を聞いて恐れた。教会のために新しい祭服を買ったばかりだったので、それらを盗みに来た泥棒だと思った。けれど、それが、悪霊が引き起こすいつもの攪乱であることに気づいたとき、彼は安心した。エジプトの修道士たちは、悪霊が住んでいると言われている場所に行って住むことを好んだ。それらを祈りによって追い払うために。教会の教父たちは「サタン(悪魔)」を鎖につながれた犬に例えた:悪魔は、自らの自由な選択で近づく者に噛みつく。
私たちは、キリストと共に悪に打ち勝つよう招かれている。
わたしはあなたが誰かを知っている。神の聖者だ!
悪霊に憑かれた人が言ったこの言葉は、私たちを驚かす:それはキリストの神性についての信仰宣言であり、人間が困難を伴って到達するもの、聖人たちだけが証しするものである!悪霊は、自分に根源的に反対するものを即座に感じ取ることの出来る特別な洞察力を持っている。また、神の力が特別な方法で現されるべき場所を、的確に見出す特性も持っている。ロヨラの聖イグナチオは、自分の何らかの計画が聖なるものであることを確信するのは、不可解な困難や予期せぬ事態、抗しがたい敵に遭遇したときだとよく言っていた。悪霊は、それが世界における自分の影響力を制限し得るものであることを感じ、キリストに対してその力を解き放つ。しかしこれもまた、救いの歴史の一部である。
Sazavaの修道院の創立者、聖Procopioについてのチェコの伝説は、彼が畑を、馬の代わりに悪魔を使って耕していたと伝えている。それは象徴的エピソードである:聖なる人は、悪を善に協力させる。
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