Tomas Spidlik枢機卿『毎日の福音』より試訳 年間22木曜日:病気の意味(ルカ4・38-44)

人々はさまざまな病気を抱えている人をみな、イエスのもとに連れてきた


健康であることは、若々しさ、力強さの感覚をもたらす。ゆえに、自分自身への信頼をも感じさせる。世界を支配できるような印象を与えるからである。それに反して病気は、弱さと無力さである。病気は働くことを妨げ、苦しみは生きる喜び、満足を奪う。それにも関わらず、病気の中にも肯定的なことがある:病気は私たちを隣人に近づける。


青年期の若者は、すでに大人であると思い上がり、もはや家族は必要ではないと言う。自分の好きなように生きるために、解放され、家を出ることを望む。そしてある日、病気であることが分かり、母親や家族をどんなに必要としているかに気づく。夫婦の間で緊張感があるとき、二人の内の一人が病気になると、二人は再び互いを近くに感じる。長く重い病気は、しばしば、人間を神に近づける善い効果をもっている。病気と共に、人は自分の弱さと孤独についての明瞭な意識を得る。病人はキリストの内に逃れ場を求め、祈りの内に成長する。二つのことがある:癒しと助けを見出すか、または命の意味をよりよく悟り、霊的に癒されたと感じるか。


悪霊は多くの人々から出て行った


あらゆる時代の人々は、苦しみや病気がどこから来るのかを問いかける。このように否定的な要素が、それぞれの生き物の必要に応じて調和の中に秩序付けられた自然の中に、どうやって入り込むことが出来たのか。古代において、東方では、病気は悪霊、または人間によって侮辱された神々によって引き起こされたと信じられていた。病人が治るためには、悪霊を追い出す必要があった。バビロン文学の中には、この目的のために使われた多くの祈りがあり、病気の治療は主に祭司に託されていた。現代の人々にとって、それらは迷信的な実践である。しかし、その原則はまったく間違っているとは言えない。私たちもまた、苦しみや病気の根源は、宗教的、道徳的なものであると考えている。聖書は、創造主の御手から出た世界が完全で汚れのないものであったと言っている。病気は、私たちの、神との衰退した関係、命の源泉からの自己疎外の反映である。

イエスは一人ひとりの上に手を置いて癒された


宗教的意味は、病気と罪、身体的悪と道徳的悪の結びつきを捜す。聖書において病気は、神の罰、主との契約への不従順の実りと考えられている。神学者たちは、神の罰には薬のような性格があり、霊的な薬の役割を果たしていると言っている。病気の目的は、私たちに自分の限界を認識させ、罪を完全に自覚させることにある。病人は自問しなければならない:神が私の命の完全性を制限しているのは、私の何がいけなかったのか。しばしば癒しは、自分の力を以前よりも良い方法で使うという道徳的な決断の後に初めて得られる。


しかし聖書は、この病気と罪の関係を文字通りに受け取ってはならないと警告している。病気は自分の欠点に対する罰ではなく、人間性の結果である。私たちは皆、最初から神に背を向け遠ざかった罪深い世界の一員である。私たちの個人的な病気は、[神に]新たに近づく機会となるべきである。

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